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森村金属株式会社 代表取締役社長 森村泰明さん【ラジオ大阪】田中泰延のシャチョーとシュチョー

田中泰延


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「森」で入社製造現場でゼロから学ぶ?! 森村社長の、社長への道のり(2月12日放送より)

小学生の頃は、会社が「遊び場」だった

二代目社長として、もう子供の頃から、お父さんからは「わしの跡を継げ」とは言われてはいたんですね。

それがね、不思議とね「会社遊びに来い」とよく言われたんですよ。

遊びに?

だから私、小学校時代に、会社遊びに行っとったんですよ。遊び場が、会社だった。

でも、いろんな働いてる人いるわけでしょ?

そうそう。まあまあ、小学生ですから、みんな社員の人たちに、かわいがってもらってね。

それで、「社長の息子」とは言われへんでしたけど、名前で呼ばれて。ヤスアキっていうんで、ヤスアキちゃん、ヤスアキちゃんいうてね。

はい、はい。

で、だんだん、だんだん会社が好きになってきてね。

何やってんのかな? と思ったら、「へー、建築か〜。こんなことやってるんや」っていうのが自分に勝手に入っていったんですね。

「世の中を読めるように」と、経済学部へ進学

で、大学まで進まれて。その時はこういう建築資材のことを勉強しようという感じやったんですか?

いやいや、まったく。ですから私、文系です。

あ、全然。文系で。

そうです。文系で、経済行ってるんですよ。

経済学部へ。

私もね、社長になるには技術ももちろん必要ですけれども、やっぱ世の中を読めないとね、難しいなと思って。で、私は高校時代に文系の経済学部を目指して。

なおかつね、東京へ行こうと思ったんです。

東京へ。

なぜかというと、東京には天皇陛下がおられるでしょ。やっぱり天皇陛下のおられるすぐそばでね、一緒にね、なんかこう、学校で勉強したい。

それ、わかりますよ。僕ね、今(東京の住まいは)自転車通勤なんですけど、毎日皇居の周りを。

いいでしょう!

ええんですよ。自然に頭下がりますから。

ですよね。

ですから、私、東京の大学しか受けなかった。関西にいっぱいあるのにね。父に言われたんですけどね、「お前」「絶対東京」。高校の先生にも「東京」と。で、東京の大学行ったんですよ。

入社時は「森村」ではなく……?!

でね、すんなり大学出てから森村金属に入社しはったんですか?

そうなんです。当初はね、他社へ行こう思てたんですけど、ちょっとね、私のちょうどその卒業の時、「オイルショック」といいましてね。非常に経済が冷めててですね、厳しい状況で。

はいはい。

言えば大手さんがすべて新卒学生を採らないというのが浸透しましてね。

で、私の父に話したら、「大手の金属のね、問屋さんに紹介してあげるわ」って言うてもらったけど、そこもダメだって言われた。

あー。

で、どうしようかって言ったら、父が「もう戻ってこい」と。

その時に、ちらっとお聞きした話ですよ? 衝撃の展開が。

普通ね、二代目の息子さんが入社してくるんやったら、「あ、ボンが来た」と、「森村のボンが来た」ってなる。……違うらしいじゃないですか。

全然違うんですよ。戻ってこいと言われて戻ってきたら、なんと「森村の『村』を外すから、『森』で入社してこい」って。

え、「森」。

それ、別人になるってことじゃないですか。

そうそうそう、そうです。

じゃあもう、まったくわからん、新卒の「森くん」として入ってきた。

森で入ったんですよ。「森くん」で入った。

製造の現場でゼロから学んだ

しかも、大学、営業の分野で出てるんですね。でも私、製造行きました。

製造へ。

やっぱり、ものをつくるのはね、知らないといかん。

現場を見ろと。

現場を見ろと。ですから、高校卒業した人がみんな現場入るんですけどね。その時、高校生と一緒に私が大学生で入ったんです。

「あいつ変わってんなー、森。なんであいつ現場入りよんねん?」って。

じゃあずっと、会社入って、森村さんの息子ではなく。

一部は知ってますよ。上層部は「息子さんや」いうの知ってますよ。でも下の子は誰も知りませんね 。

なるほど。

ほんでバーンって私、現場入って、ずーっと工場の中で製品つくったんです。

これはお父様が、「イチからやれ」ということで。

そうです、そうです。

これがでも、良かったんですよ。これが土台になってるんですよ、モノづくりの。

これはほんまにね、すごいエピソードでしょう? 森村さんが「森」ですよ。ずっと森で通して。

もちろん他の会社行ってね、ある程度学んで、5年か10年ぐらいして戻ってくる。 これも一つの二代目、三代目のやり方かもわかりません。

これは私は反対します、逆に。

何もわからないんですから。そこの会社のゼロから覚えるんですよ。

よその会社に行って戻ってくるのではなくて。

なんか染まってくるでしょ、よその会社に行って帰ってくると。こんなもんできるかってなりますでしょ。

でも私、何も知らんもんやから、パートさんと一緒になって、もう手袋・軍手はめて油まみれでやったんですよ。

これは、すごいですねえ……!

5年ほどやりました。

“一兵卒”から、全部署を経験

ほんで、全分野行ったんです、ですから。生産工程からね、運送、配達、全部やって。で、営業の外交もみんな回って。ほんで東京へ転勤になって、東京の市場も全部回って。

で、我々建築ですから、工事をやらなきゃいけないんですね。だから工事で職人さんの親方について弟子になって、親方に教えてもらって。

親方も私が息子やいうこと知りませんからね。ボロクソですわ。

「お前なに遅刻しとんねん」
「すいません、親方、すいません」

「森、アレ取ってこい」って。

そうそう、「取ってこい」って。もう必死でやりましたよ。

それで本社へ戻ってきて、今度は経理。総務やれ、経理やれ、人事やれ。そして私は人を雇って。

それでずーっと私はきたんです。全部知ってるんです、私は。

このやり方はすごい。お父さんもすごいし、それをやり切った森村さんもすごいですね。

最初に言いましたけど、「この会社継がなアカンな」っていうのは勝手に含まれてましたから。最後は社長ならないかんのでね。

いずれは社長になったとき役に立つんやなと思って、自分でやってました。

これは二代目哲学、「一兵卒から入る」という。

これ大事ですよ。そしたら社員の気持ちが全部わかるんです。パートさんもわかりますからね、今やっていて。

そうですよね。

「あんたこれ、こうしたらええよ」って言って、「あらぁ、社長さーん」とかね。

社長就任と同時に、すべての舵取りが渡された

そうやってやってこられて、本社に行かれて、42歳の時に社長に就任されたわけですね。

この時、お父様は会長にならはった ?

このバトンタッチも、またすごかったんです。

父はやっぱり社長ですから、大本営に右腕、左腕おったんです。

……全部引退させたんです、同時に。

はあ〜。

ほんで「お前一人がやれ」と。

じゃあ、補佐してくれるやろ、と思ってた人もいなくなって。

いなくなる。

で、父も取締役会長になった。「代表いらん、お前が代表やれ。俺は一切なんも言わん」。

怖いでしょ?

怖い。ある日突然、全部舵取りせなあかんじゃないですか。

いきなり。

でも、一兵卒からやってきた経験が、そこで生きるわけで。

できたんですよ、だから。

▶︎次ページ:森村社長の思う「社長の1番大変なこと」とは?

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    1969年大阪生まれ。株式会社 電通でコピーライター/CMプランナーとして24年間勤務。2016年退職し「青年失業家」を自称し執筆活動を開始。2019年、文章術を解説する初の著書『読みたいことを、書けばいい。』(ダイヤモンド社)を上梓。16万部突破。2020年、印税2割スタート・最大5割の「累進印税™︎」を掲げる出版社 「ひろのぶと株式会社」 を創業。