いなかで思うこと
「この子たちは、今やっていることが楽しくて仕方ないようなので。それはそれで、いいかなと」
いなかに行くとよく、仕事か家庭か、先の人生はどうするのか、親の面倒を見ないかん……そういう話になる。そのたびに、母は笑いながら、こう言う。
振り返ってみたら、大学時代からそうだった。
理解のある親だと思うし、ありがたいとも思う。
だけど、ふと、この言葉も「ええとこ就職して、結婚して、子育てして、それで親を安心させないかん」と同じぐらいに、ある意味で呪いとなることがあるよなぁ、と思った。
頑張らなきゃいけなくなる。
楽しんでいる、自ら喜んでいる自分でいなければなくなるのだ。
“仕事が楽しくて仕方ない自分”であろう、自分はそういう人間であるはず。
そう自身に念じかけているうちに、辞めたい、しんどい、なんか違う、といったことを口にできなくなる。思うことさえ、頭の中をよぎることさえ、あってはならないことだと考えるようになる。
そうして、不満を抱くことに、弱音を吐くことに罪悪感を抱くようになる。
そんなそぶりを見せたら、「好きでやっているのに、わがままだ」とか、「だから、言ったのに」「素直に言うことを聞いていればいいのに」と、善意の猛攻撃を受けるのではないか。かばってくれた人をおとしめることにもなるのではないか。そう、警戒する。
だけど、楽しいと思っていた仕事だって、夢中になっていた活動だって、ちょっとしたことで簡単に変わってしまうことはある。
プロジェクトの内容、社会の環境、人間関係、立場。
最近思うのは、ライターや編集者のフリーランスの中には、仕事が好きだったのに組織の理論で管理者にならざるをえなくなり、そこから逃れるためにフリーを選んだという人もいるんだろうなぁ、と。
本当に自分が楽しくてやりたかったことは外注や後輩や、あるいは最近ならAIに任せればいいじゃんと言われてしまうこともあるかもしれない。やりたいこと、誇りを抱き好きだったことから引き剥がされていく感覚。これは、しんどい。近くにいるからこそ、触れるからこそ、しんどい。
組織の人間として動けないのではない。むしろ逆で、“できてしまう”からこそ、そこから抜けることでしか守れなくなる人もいるのだろう。
とにかく、楽しさもやりがいも、ちょっとしたボタンのかけ違いで簡単に変わってしまう。あるいは、楽しいし好きだけどしんどい、ということだってある。
でもそれに気づけず、ポジティブに楽しんでいる自分であらねばと頑張ってしまっていたら。逃げることも、変えることもできなくなってしまう。よく聞こえる言葉も、時には縛りになってしまう。
言葉は、思い込みという呪いをつくるから。
週末、いなかにいて、久しぶりにそんなことを考えた。
これまでは当事者として「時代が違いすぎる」とカッカしていた言葉も、少し離れて見られるようになった。年齢だろうか。
そうなると、価値観も環境も違う場所というのは、ある種の刺激となり、自分から離れて自分の状況や環境を見たり整理したりする時間になりえる。
やることがないわりに会う人はいて、だからPCに触れられないという環境は、これまでは煩わしく感じていたけれど、ぼーっとしたり考えたりしかできない時間は、貴重な脳の息抜きになった。
スマホを持ってしまい、電波に、チャットに追われ、対応ができてしまう今、脳の息抜き下手になったなぁと思う。
映画館が好き。劇場が好き。スマホを切って、その世界に集中できるから。でも、それだって脳の息抜きになっているかと言ったら、別の刺激を入れているわけで、完全な息抜きではないでしょう。
たまには、必要だと思う。
水面と苗のどちらもが見える6月の水田は、青くキラキラして、見ていて気持ちが良かった。
そうして、当たり前に活動している都会の日常も、それは別の環境から見たらきっと異常で、いなかとは別の視野の狭さにとらわれているかもしれないなぁ、と感じた。「スピード感を持って取り組まねば」は、間違ってはいないけれど、しがみつくものではないのかもしれない。生物として心地いい状態なのだろうかと。
たまには、いなかもいい。
次は、知っているいなかではなくて、まだ知らない、遠くへ行きたい。
廣瀬 翼
レポート / インタビュー
1992年生まれ、大阪出身。編集・ライター。学生時代にベトナムで日本語の先生を経験。食物アレルギー対応旅行の運営を経て、編集・ライターとなる。『全部を賭けない恋がはじまれば』が初の書籍編集。以降、ひろのぶと株式会社の書籍を担当。好きな本は『西の魔女が死んだ』(梨木香歩・著、新潮文庫)、好きな映画は『日日是好日』『プラダを着た悪魔』。忘れられないステージはシルヴィ・ギエムの『ボレロ』。





