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阿波踊りのプロになる! 覚悟を決めた東日本大震災直後のハワイステージ 【踊る阿呆の無礼講!】

米澤渉


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「僕らがやっていることって、こんな価値があるもんだったんだ。覚悟が決まった」

そう話すのは、NEO阿波踊り集団「寶船」の米澤陸(よねざわ・たかし)さん。

プロの阿波踊り集団となる覚悟を決めたのは、東日本大震災の翌日のハワイステージ直後。そのとき「寶船」のメンバーはどのような光景を目にしたのでしょうか?

米澤渉×米澤陸で贈る、ラジオ大阪「踊る阿呆の無礼講!」の第3回。阿波踊りを仕事にしたきっかけからスポンサー探しの裏側を話します。そのほかにも、お互いのすごいところを言い合う一幕も。今回は、大阪の夏を彩る「天神祭」の話からスタート。アヤットサー! ヤットヤット!

(執筆:東田たま緒 編集:廣瀬翼)
※本記事は2026年7月21日のラジオ大阪の放送を元に構成しています

阿波踊りのプロになる前、リーダーはロックバンドをやっていた

7月21日ということでね。

はい、もう夏が始まりまして。

夏、真っ盛り。

大阪ではですね、今、大阪天満宮というところで、天神祭がクライマックスみたいですよ。

すごいらしいですね。

すごいんだって。

写真しか見たことないですけど、めちゃめちゃ盛り上がるって聞いてますけどね。

7月25日の本宮は、およそ100隻、船が出て。

100隻の船ってどんな……?!

この大川を行き交う船渡御っていうのがあったり、それから花火ですね。夜空を彩る奉納花火が見どころだと。

へぇ〜!

もう大阪すごいんじゃない?

めちゃめちゃ盛り上がるでしょうね。

ねっ。

大阪ってめちゃめちゃお笑いもそうですけど、エネルギーあるというか、テンション高いコンテンツが多いじゃないですか。

うん。

お祭りも、やっぱりすごいんじゃないですかね。寶船もどっかでね、大阪のイベント呼んでもらいたいですよね。

本当に。実は僕たち、関西では劇場公演も昔やってた。

そうなんですね。新大阪のところでしたね。

でしたね、劇場でやったりとか。で、僕はもともと阿波踊りのプロになる前は、バンドマンだったの。

あー、そうね。

その時は、大阪のライブハウスめちゃくちゃ出てた。

そっか。全国ツアーとかやってたんだもんね、バンドで。

そう。高速で自分で運転して、大阪まで行って、ライブハウスに行って、っていうのやってたよ。

米澤渉さんのバンド時代

やっぱ、あれなのかな。例えば、ロックバンドやってて、東京のお客さんと大阪のお客さんっていうのも違うのかな?

なんかね、ツアーでバンドが行くと、そのバンドのアーティストに対して、ツアーバンドってことをちょっと大切にしてくれる感じがあって。

あぁ〜。

関西の人たちってあったかいんだと思う。

そうだね。

距離が近いというか、思ったよりもこんな言い方アレかもしれないけど、ちょっとシャイだったりもする部分もあったりして。

人によってはそうかもね。

懐に飛び込むと家族のようにしてくれたり。それがすごい素敵なところだよね。

割といつもね。大阪でツアーとかに行くと結構。あのあれね、あの心斎橋のほうとか。

行く行く。

あとあれね、新世界の方でね、串カツ食べたりしてね。で、結構地元の方がかなりいい感じで喋りかけてくれたりとかね。

串カツ屋さんで、うちのメンバーが昔、好きな子ができたって言って。

そう、これ言っていいのかな?(笑)

店員さんね、串カツ屋さんの。

12〜3年前、もっと前かな? 串カツ屋さんの女の子に一目惚れして。

するっていうのもあった!

夜また会いに行きたいって言いまして(笑)。

2回行ったよ、あそこ。

そうそう。くれぐれもこれ、10代の頃ですからね。その子がね。

そういうのもあって。いやぁ、いい街なんですよ。

いやー、いいですね。大阪また行きたいですね。

行きましょう。というわけでね、ぜひ、お祭りとか「僕の近くのお祭りも来てください!」ってのがあったら、全然寶船で行くんで。呼んでいただけたらうれしいですね。

それでは、今週も始めていきましょう。

アヤットサー!

ヤットヤット!

「踊る阿呆の無礼講!

【メッセージ】いつから阿波踊りを「仕事」に?

ということで始まりました「踊る阿呆の無礼講!」。早速ですが、メッセージをいただいております。

ありがとうございます。

ラジオネーム、「坊主頭とスキンヘッド」さん。

「お二人はいつから阿波踊りを仕事として、本気で向き合うようになられたのでしょうか。また、本気で向き合って大変だったことと、本気じゃなければ得られなかったことはありますでしょうか」。

なるほど、これ大事な……!

というメッセージいただいています。

メッセージ、ありがとうございます。

いつから仕事として向き合うようになったか。

要するに、仕事にしたっていうタイミングでいうと、阿波踊りのプロとして、法人化をしたときですよね、タイミングとしてはね。

2012年。

そう、2012年の10月。

そうですね、だいぶ前ですね。

あのあたりって当時、どんな感じでしたかね、心境としてはね。

まずね、阿波踊りってプロがいなかったんですよ、今まで。

そう!

単独のグループとして法人化して、プロ団体だっていうのはいなくて。それで僕らは一番最初に、なんでプロになろうかと思ったかっていうと、海外で踊る機会があったんですよ。プロになる前ですよ。

そうですね。

プロになる前に連絡が来て、「ハワイで阿波踊り、踊りませんか?」っていうのがあったんですよ。それはエンタメチームのオファーというよりは、自分たちでお金を払ってハワイに行って、それで自己負担でハワイを楽しみつつ、ステージも用意されて踊りを披露するっていうイベントだったんです。

そうそう、そうそう。

だから、もちろんギャラをいただいてるとかではないんだけど、すごくいい機会だから行こうってなったんですよ。

そうなんですよね。

このハワイが、僕たちの中では本気で向き合うようになった1番のきっかけで。なんできっかけかと言うと、ハワイに僕らが行ったのがプロになる1年前の2011年。

2011年!

3月なんですよ。

3月……と言えば、ってことですね。

ハワイに行って、ホノルルのフェスティバルに出ようとした前日に、日本で東日本大震災が起きるの。

そうなんです。

そう。

3月11日。

そうです。

まさにその瞬間ですよね。

それで、本当に阿波踊りができるのかなって思ったんだけど、ハワイはそんなに大きな被害がなかったということで、フェスティバルを普通に踊ったんですよね。そしたら、僕たちの次のグループさんが、津波の影響とか空港の影響でクローズしてしまって、なかなかハワイに来れなかったっていうことがあって、僕らがトリにさせてもらった。

そう、これもアクシデントでしたよね。

そう、アクシデントで。トリにさせてもらって踊ったら、もう僕らは予定どおり、練習してきた振りをただ踊るぞってやったんですけど、そしたら「ものすごい、生きる力をもらいました」って言われたんですよ。

そうなんですよね。

津波とかが起きちゃって、みんな「このまま日本はどうなっちゃうんだろう?」。そして、ハワイの人たちも、日系人の人たちがいっぱいいたり、日本人も住んでいたりして。ホノルルのコンベンションセンターで、1,000人にも満たない数百人くらいのお客さんの前で踊った踊りが、意図せず勇気を与えることができたっていうことを実感したんだよね。

そうだ、あの時に、初めて日本人じゃない人に阿波踊りを見せることができたっていうところがあって。「僕らがやっていることって、こんな価値があるもんだったんだ」っていうのを、そこで学んだっていう。それで1個きっかけになりましたよね、覚悟決まった。

めちゃめちゃきっかけになって。

「スポンサーになってください」企業へのテレアポ営業時代

それで帰ってきたら自粛ムードもあって。

そうなんですよね。

エンタメができないっていう。

成田空港に帰ってきた瞬間に、基本的に明かりが消えてて。

そうだった!

当時、「節電しましょう」っていう空気があって。ファミリーマートとかローソンのおにぎりコーナーとかの棚も全部基本的になくなってて。

そうだった。

本当に真っ暗な中、車で家まで帰って来たって思い出ありますけどね。3月の10なん日だったかな。

余震も続いてたしね。関東ではね。関東東北では。

だから、最初の海外ツアーが良くも悪くも、楽しく、華々しくワクワクして帰って来たっていう感じじゃなかったのが、また運命というか。

そう。

改めてもう1回ちゃんと考えるきっかけになりましたよね。

この物資とか、そういうものが当時はまず最初に必要で、生きる場所をちゃんと確保するとか、そういうことのほうが重要なことだったから。

そうね。

その時は、阿波踊りとかお祭りも全部、もちろん中止になったりしたんだけど。いずれ生活が少しずつ回復していったら、この阿波踊りのお祭りのような、人のエネルギーを解放したり、喜んだり、楽しんだりする場所が必要になってくるんじゃないかって、その時に強烈に感じて、翌年法人化した。

そういうことですね。このハワイ行ってから法人化するまでって、何がありましたっけ? 意外と1年くらいあるじゃないですか、その間に。

だからそれこそ、本当に情けない話なんだけど、仕事をもらうために、いろんな企業に電話してた。

そうそう! したしたした! 仕事もらうって言っても、阿波踊りのプロっていうことそのもの、概念がないから

概念ないよね。

じゃあ、どうする? ってときに。僕らね。兄弟なんで、米澤家の実家にみんなで集まって、当時プロでやって行きたいっていう熱いメンバーと。とりあえず家電で法人電話とかないから、家の電話番号でYahoo! とかで「日本の企業一覧」みたいなので「あ行」から「か行」とかいろいろあって、片っ端から普通に窓口みたいな電話かけて。

そう。

「『寶船』っていうんですけど」って言って、全然関係ない——

全然関係ない——

某飲料メーカーさんとか、某携帯電話メーカーさんとか。

そう。

いろんなところに電話かけて、「阿波踊りをやっている『寶船』なんですけど、スポンサーになってくれませんか」って言って。

でも結構ね、ちゃんと会いに行くところまでいったりしてるのよ。

してます、してます。1日ノルマ1人50件くらい電話して、「まずは直接合わせてください」って言ってね。ちゃんとスクリプト作って、電話営業の。それで、「直接合わせてください」って言って。

そう。

そもそも、直接会ってくれるまでが全然、もう20件に1回とかしかないから。

本当に。この時の、法人化してハワイに行った後に、初めて2014年にフランスに行ったり、アメリカに行ったり。

いわゆる海外ツアーね。

海外ツアーができるようになった。2年くらいかかってるんですけど。

そうなんですよ。

その時に、寶船が入場曲に使った曲があって。

そうね。

その曲がパンクの曲なの。

そう!

【曲紹介】The Jam 「In The City」

なんでパンクにしたかって言うと、当時、俺たち10代だったりして。僕は20代だったけど。

僕もハタチとかよ。

ハタチくらいだよね。若者の、「ここのエネルギーを聴いてくれ。俺たちはこの阿波踊りというもので、世界を変えたいんだ」みたいな。ほとばしるエネルギーというか、情熱があって。

や、もうね。

この「In The City」っていう曲で出てくるんですけど。

そうそう、そうそう。

その歌詞がね、「俺は! 若者の声を聴いてくれ。この街に俺は言いたいことがあるんだ〜!」って曲なの。「この街に言いたいことがあるんだ!」

しびれるね。

そう! そういう曲なの。で、俺はね、このね、入場曲に当時の俺たちのね、なんかその想いが詰まってる。

詰め込んだね。

そう、ちょっと聴いてもらっていいですか?

聴きましょう!

阿波踊りの伝統芸能、日本芸能の団体がどんな曲で入場してたか、ちょっとぜひ聴いてください。

当時、ハタチ。

はい、The Jamで「In The City」 です。

▶︎ 次ページ:渉&陸、互いに思う「ここがすごい!」とは?

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    NEO阿波踊り集団「寶船 」連長/株式会社アプチーズ 代表取締役。 1985年東京都生まれ。パフォーマー全員が赤い衣装をまとい、派手なメイクを施して激しく踊る独自スタイルの「NEO阿波踊り」で演者と観客が一体となる熱狂を生み、多数の海外ツアーも敢行。2025年までに世界26カ国で活動を展開してきた。2024年Forbes JAPANが選ぶ「カルチャープレナー(文化起業家)」30組の一人として選出された。2025年、初の著書『踊る阿呆の世界戦略』(ひろのぶと株式会社)を出版。同年10月、父より引き継ぎ連長就任。