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マッドマックス 怒りのデス・ロード【連載】田中泰延のエンタメ新党〈第十二回〉

田中泰延


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人間は、神に「一本取られた」と言わせるために生きている。

映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

ふだん広告代理店でコピーライターやCMプランナーをしている僕が、映画や音楽、本などのエンタテインメントを紹介する田中泰延のエンタメ新党。
かならず自腹で払い、いいたいことを言う、を私の映画紹介のルールにしています。どちらかというと、観てから読んだほうが話のタネになるコラムです。
 

さて、この連載、「映画評のくせに長い」「とにかく長い」「長くて困る」「長くて長くて」「小牧長久手の戦い」という貴重なご意見が少しですが95%の方から寄せられております。
 

ですがみなさん、困らないでください。羽柴秀吉軍と徳川家康軍に分かれて戦わないでください。今回は大丈夫です。安心してください。短いです。
 

そんな、今回観た、ごちゃごちゃ言ってる場合じゃない映画はこちら。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』。予告篇をご覧ください。いくつかの予告篇がありますが、僕はこのバージョンが一番好きです。

出典:YouTube

最近、僕のまわりではこのような会話が飛び交っています。
 
「観た?」「まだ観てない」
 
「観た?」「何回?」
 
すでに「何を」などという目的語がありません。観たか観てないかというと『マッドマックス』のことなのです。
 

いま、この惑星は大喜利祭りになっています。世界中が「マッドマックスでうまいこと言おう」みたいになってます。


「今からマッドマックス観に行く」とツイッターに書き込んだ人が、数時間後、ものすごく知能指数が下がったツイートをするのもこの映画の特徴です。
 


そして、「マッドマックスを観て知能指数が下がったね」と言われると本人が喜ぶのもこの映画の特徴です。
 
僕も今から観てきます。ですが、僕はまったく、そんな知能指数が下がる映画だとは思っていません。きわめてインテリジェンスに溢れる映画だと考えています。後ほど、この映画の構造的、技術的な解説を述べたいと思います。僕の予想する限りでは、
 

● 映画史を塗り替えるほどのアクションシーンの連続性、その撮影技法

● それら「活動写真」の本質を維持しながら、かつ物語を成立させる微分/積分的な構成

● ジョーセフ・キャンベルが比較神話学の見地から『千の顔を持つ英雄』『神の仮面』などの著作で指摘したような北欧神話的な英雄譚としての構造

● 現代社会をディストピアとして投影した戯画的な描写

● その中にあるフェミニズム、人権の概念

などが散見されると思いますので、それらを中心に詳しく分析します。それが映画評論の役割というものです。では、行ってきます。



みてきましたぁああああ!!!
 

うおおおおおおおおおお!!!!!!!!!
 

ひゃっはーーーーーーー!!
 

どかーん! ぼかーん! うおー! ぐおー!! ぶいえいと! ぶいえいと! うひゃひゃひゃひゃひゃ! おひょひょひょ!! うっひょ〜!!!
 

【れんさい】たなかひろのぶのえんためしんとう だい12かい おわり
 

でも、こんなんかいてたらしごとがなくなるとおもうからもういっかいみてくるね! ひゃっはーー!!
 

もう1かい、みてきました。すこし、おちついてきました。ハァハァ。カタカナも思い出してきました。・・・だんだんかんじも書けるようになってきました。なぜもう1回観たくなったのでしょうか。バカ映画だから? 違います。この映画にはバカのかけらもありません。すべてのカットに、意味がある。完璧です。完璧なMADです。マッドがマックスです。
 

この映画にはたくさんの上映方式があります。2D字幕版、吹替版、3D字幕版、吹替版、めちゃくちゃ音がいいらしいDOLBY-ATMOS、そして3D・IMAX、さらには椅子が動いたり液体が飛んで来たりするMX4D、あと立川でやっている、わけがわかりませんがなんだかすごそうな「極上爆音上映」などなど。
 

後輩の藤井亮くんも悩んでいました。

藤井よ、お前はなにを言っているのだ? それは観る順番の話か? 全部観ろ。

はっきり言って、この映画のすごさには上映方式は関係ありません。2D字幕だろうが、3D吹替だろうがかまいません。いや、1Dスワヒリ語吹替だろうが5D上下反転上映だろうがすごさは変わらないでしょう。

まず、今年の初め頃、僕は最初の予告篇を観ました。ほんの1分の映像ですが、「こんなにクライマックスの見せ場を全部予告篇で見せて大丈夫か?」と思いました。でも違いました。1分は1分なんですよ! なに言ってるかわかります? この予告篇での1分は、映画の中でも単に1分なんですよ! これはこの映画のすごいところだけを繋いだ1分じゃないんですよ。つまり、2時間あるこの映画は、予告篇の1分の密度で、2時間あるんですよ。
 

アクションシーンというのは、本来映画の筋の中で、一番盛り上がるところで炸裂するものではないでしょうか。映画の歴史を振り返ると、ジョン・フォード監督の1939年の『駅馬車』。これこそが「カー・チェイス」の歴史を拓いた、革命的な映画でした。

出典:YouTube

そして僕がオールタイムベストワン級に愛している映画、『ベン・ハー』の大戦車競争。1959年の映画です。

出典:YouTube

どちらも、今観ても素晴らしい。しかし『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は、初めから終わりまで、とんでもない密度のカー・チェイスです。2時間全部が、車の追いかけっこ。全編、地獄のチキチキマシン猛レース。隅から隅まで、皆殺しマリオカート。なんなんだこれは。しかも「ロード」ってあんた、道なんかないです。砂漠です。
 

アクションなんてもんじゃないです。2時間の映画で、走ってないところ、戦ってないところ、休憩するところは1箇所だけ、時間にして10分ぐらいしかありません。しかもアクションは極力CGを排して、スタントマンの命掛けの演技で成り立っています。僕はこの映画、自分の中ではスタントマンは10人死んだことにしています。

 
僕、観たやつも観てないやつもつかまえて、2時間の映画なのに、この映画の話を鳥貴族でもう18時間ぐらいしています。それを全部書くと、この連載もこの『街角のクリエイティブ』というサイトも終わってしまいますので、やむを得ず箇条書きで。ほんとは箇条ごとに鳥貴族で2時間しゃべり続けるおっさんだと思ってください。めっちゃうざいです。

● 前回までの『マッドマックス』シリーズは観ていなくてもいい。今までのファンがニヤリとするような関連づいたカットやアイテムはあるが、関係なく楽しめる。

● 筋はない。世界がある。ストーリーはなんの説明もされない。ただ、人類が現在の文明を失ってしまい、ある独裁者の支配する集落があることと、クルマとガソリンと武器はかろうじて残っている世界であることは、だれがみてもわかる。

出典:「マッドマックス 怒りのデス・ロード」予告編

出典:Drive Life

● 最小限のセリフだけでできている。みんな極限までしゃべらない。物語を説明しない。自分の気持ちを訴えない。恐ろしいからといって叫ばない。主人公マックスは全部で100回もしゃべらない。そのうちの3回は「それは俺のクルマだ!」である。マックス役のトム・ハーディの抑えた演技、ちょっと頭悪い? ていうかこの人タダの通りがかり? でも俄然ノってきて高倉健、という人物造形は素晴らしい。

出典:マッドマックス公式サイト

● フュリオサ! フュリオサ! フュリオサ! この映画の主役はこの人。まさに神話の登場人物。こんなに気高く強く美しく戦うヒロインみたことない。そもそも原題の ” MADMAX FURY ROAD ” の「フューリー」と彼女の名前が呼応しているわけで、邦題はちょっともったいない。
後輩の桑原くんは、「観終わってから思ったんですけど、あれってひょっとしてシャーリーズ・セロン?」という名言を吐きました。桑原くんにそう言わせただけでも本年度のすべての主演女優賞を差し上げたい。また、後半、フュリオサが涙を流しながら闘うシーンが続く。ジョージ・ミラー監督によると、「砂埃が目に入ったらしいがそのままカメラを回した」そうだが、そんな映画ありますか? いやもう一回いいますよ。そんな映画ありますか?

出典:マッドマックス公式サイト


● 悪役はどこからみても悪役として描かれている。が、悪役には悪役の理がある、それがこの映画に深みを与えている。独裁者イモータン・ジョーにも荒野を支配するための方法論がある。資源を支配し、近隣都市と同盟を結び交易し、宗教的な権威をまとい、人間をそれぞれ1つの役割しかない道具として使うが、それはあくまで共同体の発展のためのメソッドである。狂気に見えるが、それはそもそも原始社会の戯画化であり、文明がリセットされてしまったら、少数の生き残りはこのような形でリブートせざるをえない可能性は十分にある。これは、人間社会そのものであり、そのなかで1つの役割しかない道具として生きるのは我々と同じではないか、観客である自分ではないか、という気もしてくる。

出典:マッドマックス公式サイト


● とはいえ、悪はどうも殺人チンドン屋集団にしか見えない。有名な話だが、『マッドマックス』シリーズに影響されてできたのが『北斗の拳』。その北斗の拳を逆輸入のような形で取り入れている部分もある。とにかく、バカっぽいとかを通り越していて、これを観ると、いろいろ考えなくてはと思っても知能指数が下がってしまう。

写真は、戦いの最中太鼓を叩くだけマンたち、そしてどんなに激しい戦闘の中でもギターを弾き続けるマンである。なんでギターが火を吹くのかだれか教えてほしい。

出典:「マッドマックス 怒りのデス・ロード」予告編

出典:「マッドマックス 怒りのデス・ロード」予告編

● 登場人物同士が仲間になり、共に生きるために戦う過程も、セリフではなく、すべて物語上必要な「アクション」で示されるという、とんでもない演出力。ニコラス・ホルト演じるニュークスも、最初は上で述べたような、1つの用途しかない使い捨ての人間である。その彼が人間としての尊厳を取り戻す瞬間がこの映画を語っている。

出典:マッドマックス公式サイト


● 1つの用途しかない使い捨ての人間の最たる者が、この映画で追いかけっこが始まる理由である子産み女たち「ブリーダーズ」。しかしとにかく美しい。死語で表現するとマブい。

出典:「マッドマックス 怒りのデス・ロード」予告編


● 前回評した『トゥモローランド』のどうしようもないヌルいユートピア描写の真逆を行くディストピア描写。真に説得力があるのはこのような未来であると実感してしまうことにこそ、人間の内なるMADがある。だいたい、『トゥモローランド』のラストで、優秀な人間が選ばれてみんなトゥモローランドに行っちゃったら残された地球はこうなるわけで。そう考えるとこれは『トゥモローランド』の最悪の続編である。

● 脚本、監督のジョージ・ミラーは70歳! 『マッドマックス』のすべてのシリーズの監督であり、また豚が主役の『ベイブ』、ペンギンの群れのCGアニメ、『ハッピー フィート』の監督でもある。

出典:映画.com

出典:Amazon
出典:Amazon


この一見ほのぼのした2作を観ると、実はジョージ・ミラー監督の訴えたいことは一貫している。それは、「生きる者は、群れに埋没せず、尊厳のために戦わなければならない」ということである。もしご覧になった方は『ベイブ』の最後の台詞をぜひ思い出してください。あとでその話をします。
 

● 過剰なフェミニズム視点ではなく、真の人生を求めて逃走する女たちとそれに手を貸そうとする一人の男の奮闘の姿、これって前々回解説した『駆込み女と駆出し男』に重なる。フュリオサ役に満島ひかり、そしてマックスを大泉洋で脳内変換すると爆笑。そしてたぶん満島ひかりはカッコいい。

・・・アクションの組み立て、「輸血」の意味、砂漠だからこそ鮮やかに設計された色彩、音響、まだまだいいたいことたくさんあるんですが十分うざいんで、このへんにします。
 
 

この映画を観たら、猛烈に『神々のたそがれ』を思い出しました。まず、シーンのそれぞれが1枚の絵画として成り立つほどの美しさを持っていること。この2つの映画の監督の、人間の脳内にあるイメージを完全に、絶対に映像にする執念。
 

そして、その内容に呼応する点があること。人間は、放置していたらまたたく間にMADな社会を作り上げてしまう。それに対して無力な神はなにもできません。ただ、眺めるのみです。我々はこの2つの映画で、観客=神の視点、無力な視点を体感させられます。『神々のたそがれ』のクライマックス、大殺戮が起こりますが、映画はそのシーンを描写しません。皆殺しの嵐が吹き荒れようとする、まさにその次のカットでは、すべてが終わり、荒野に無数の死体が転がっています。ぼくは、そのシーンでジャンプされた部分こそが、この『マッドマックス 怒りのデス・ロード』だとはっきりとわかりました。『神々のたそがれ』は3時間の映画、そのラスト前に2時間のこの映画を挟み込んで、合計5時間の上映会をやるべきです。
 
 

短く書きますといってぜんぜん短くなかったですね。すみません。僕、この映画を観て胸がいっぱいなんですよ。いまも目を閉じると砂漠が瞼の裏に浮かんできて、目を開けると泣くぐらいです。泣くってなに? バカ映画だろ。ヒャッハーだろ。どういうことですかまったく。
 

今年、このコラムで映画の話を始めてほんとうによかったなと思うのは、『神々のたそがれ』と、この『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を、間を空けずに続けてみられたことです。
 

フクロウ蝶って知ってますか?

出典:西日本新聞


フクロウに擬態した蝶です。彼らは小鳥に食べられないように、小鳥の天敵であるフクロウの顔に自らを似せているのです。いったいどういうことでしょう。
 

蝶が集まって、「おい、俺たち生きるためにフクロウに似せようぜ」「小鳥が来たらぱっとひっくり返って撃退するんだ」「そうしよう。誰がデザインする?」「まずフクロウの写真撮ってこいや」「それをトレースだな」とか会議したでしょうか? まったくわけがわかりません。こんなの進化論で簡単に説明できますか? 遺伝子生物学で納得できるように説明できますか? この世界は、狂っているのです。MADなのです。
 

小鳥を食べるフクロウも、蝶を食べる小鳥も、そしてその小鳥を追い払う蝶も、みな生きるために生きているのです。生きるために他者の命を狙い、そこから逃げる。望まなくても犯されれば命を宿す、そしてまた生きるために恐ろしいことに手を染める。そのような生きとし生けるものの営みこそがMADなのです。
 

この世界はMADです。その世界の一部である人間もMADです。もし、この世界を創った誰かがいるとしたら、まぁ、神と呼んでもいいでしょう、その神が自分に似せて人間を造ったのだとしたら、神はMADです。
 

ですが、生きとし生けるものは、そのMADな定めを超えて、神を呆れさせるために生きているのではないでしょうか。この映画のキャッチコピーは「お前のMADが目を覚ます」でした。しかしこの映画で本当に目を覚まして我々の胸を打つのは、フュリオサが、女たちが、ニュークスが、そしてマックスが、そう人間です、人間がMADな定めを超えようとする戦いの姿ではないでしょうか。
 

神よ御照覧あれ。これが芸術でしょう。
 

地の群れは、生きるものは、MADな自分に似せて我々をMADにこしらえた神とやらをびっくりさせるために生きているのです。
 
あなたがこの世界を、残酷で狂気に満ちたものに創ったのは知っている、だが私たちはその定めに逆らって、真実を見つける。善いこととは何かを知る。美しさをここに永遠に残してみせる。それこそがあなたがやらせたかったことではないのか。

人間は神に「こりゃ一本取られたわい、なかなかやりおるわい」、と言わせるために生きているのです。
 

先にも書きましたが、ぜひこのジョージ・ミラー監督の『ベイブ』、群れから離れた一匹の子豚の物語を観てください。そして、その最後のセリフを聞いてください。
 

まだ観てないうっかりさんたちよ! この週末、なにか映画を観ようと迷っているなら、この映画を観てください。土曜の朝から日曜の夜まで真剣に取り組めば10回は観ることができます。
 

この映画を映画館で観た、という体験は、きっと30年後にも自慢できるでしょう。
 
 

ひとつだけ苦言を。これがR15指定というのがまったく解せません。目を覆う残虐シーンもそんなにありませんし、なにより親子で、人間社会とは、生きるとは、自由とは、勇気とは、そして神とは・・・話し合える映画のはずです。次代をになう子供たちにこそ観てほしい。まぁ、刺激が強すぎて小中学生はヒャッハー! の世界からしばらく帰って来れないことを見抜いたうえでの指定なら、映倫の人もこの映画、よくわかってると思います。
 
 

ていうか、どこかにマッドマックスのテーマパークを建設して、専用劇場を作って、この映画を360度スーパー8D激音振動骨折出血輸血もされる超マックス上映方式で恒久的に体感できるようにするべきです。人類が続く限り365日観られるようにすべきです。
 

どう伝えればいいんでしょう? 言いたいことの100分の1も書けてません! 今からもう1回観てきます!
 

ヒャッハーーーーー!!!!!!

出典:映画.com

映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』公式サイト


 

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  • 田中泰延 映画/本/クリエイティブ


    1969年大阪生まれ 元・広告代理店店員 元・青年失業家 現在 ひろのぶと株式会社 代表