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2026年5月7日「街角diary」上田豪がお届けします。

上田 豪


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ちょいと気になる㉞

おはこんばんちは。
広告探偵の上田豪です。


えー、みなさん。
GWはいかがお過ごしでしたか?

俺のGWはあっという間に終わってしまい、これで寝て起きたら仕事だよなあと思いつつ大事なことに気づいちまいました。今日は木曜じゃん。街角diary書かなきゃじゃん。もう午前1:00過ぎてんじゃん。やばいじゃん。アゼルバイジャン。

というわけで、今日も「いま何を読まされたんだろう」という読後感を味わえる木曜日。

例によって今週も見切り発車で着地点の見えない旅へ。


*****

はい。もうね、深夜だからね、とっとと本題入ります。


「あの名曲を再解釈してみた③」。
いつもの感じです。暇つぶしにご覧ください。


まずはこの曲をじっくりとお聴きください。


はい。みなさんご存じ。
久保田早紀の名曲「異邦人」。

もはや知らない人がいないと言っていいこの名曲のイントロが流れてくるだけで、誰しも異国情緒やノスタルジックな砂漠の情景が脳内に浮かんでくるのではないでしょうか。

ところが、今、この歌をじっくり聴いてみると、ちょいと気になっちまったことがある。


奥さんいいですか。
この曲の本質は、異国情緒なんかじゃない。

この曲の本質は「KEISHOU」。

といっても、
景色が優れている方じゃないし、軽い傷の方でもない。
先週フォーカスした「継承」でもない。

「警鐘」だ。

結論から先に言う。
これは社会風刺の歌じゃないか。それも、ズバリいってコンプライアンス意識が肥大化し過剰になり過ぎている令和の日本の世の中に警鐘を鳴らす歌なんじゃないかと。

そこに気づいた俺は、原稿の〆切まで残り少ない時間にも関わらず例によって様々な思考を巡らせながら、その仮説を証明していこうと思うなんつって思いつきで書き始めてるけどやれんのか俺。


*****

早速歌詞を見ていこう。


この一節は本来であれば希望の描写だ。無垢で、自由で、未来がある。
ところが、今の世の中の肥大化した過剰なコンプラ意識で読むとこうなる。

その遊びは許可されていますか。
保護者の同意書はありますか。
空に向かって手を広げる行為は近隣の迷惑になりませんか。
公園でボール遊びができないのはなぜですか。
海は死にますか。
山は死にますか。
風はどうですか。
空もそうですか。
おしえてください。

そのうち、子どもたちは夢を見る前にも注意事項みたいなものを読まなきゃいけなくなりそうだし、未来への翼を得る前にも利用規約みたいなものに同意しなきゃいけなくなりそうだ。


なんと美しい一節だろうか。

ところが、肥大化した過剰なコンプラ意識で読むとこうなる。

「鳥をつかむ」には鳥獣保護管理法による許可があるか。
「雲をつかむ」つまりクラウドの利用には規約をよく読んだ上で課金が必要。
「夢をつかむ」に至っては景品表示法に触れないか。

今の世の中、何ひとつ簡単につかめない。そのうち吊り革をつかむにも申請書が必要になるのではないだろうか。

ちなみに自己啓発セミナーの販促物でよく見る「夢が叶います」は景品表示法的にどうなのかと思ったりもするが、こんな注釈がついていたりする昨今だったりする。「※夢には個人差があります。」そりゃそうやろ。


ここの一節はとてもいいフレーズだ。
出会いによっての気づきや自分が変わる瞬間を表している。

ところが、肥大化した過剰なコンプラ意識で読むとこうなる。

「その姿は、昨日まで法改正を知らなかった私」。

無論、そんな言い訳が通用するほど今の世の中甘くないが、自転車の取り締まりの前にLUUPなる無法なものをまずはどうにかせいとは思う。


この一節は切ない。
届きそうで届かない距離を表している。

しかし肥大化した過剰なコンプラ意識で読むと「あなたにこの指が届く」とは「おまわりさんあの人です」、つまり告発の人差し指のことである。そして人差し指はスマホのことも暗示している。SNSでの誹謗中傷がそれだ。人に向かって指を刺すその先に愛はあるのだろうか。

なお、間違えやすいが「ケジメで詰めた指が届かない」という読み方は昭和の時代の極一部の読み方でありこの歌の本質とは違うことを記しておく。


これまた名フレーズである。
スケールが大きい砂漠の地平線の情景。

しかし肥大化した過剰なコンプラ意識で読むと「境界線の曖昧な土地」となり、そうなってくると権利関係の確認が必要になるし弁護士も測量士も地面師も忙しくなる。

そもそも空と大地がふれあう場所など現実には存在しない。つまりその表示には優良誤認のおそれがある。このフレーズがマンションポエムなら間違いなくJARO案件だ。


この一節はロマンが過ぎる。こんなフレーズはなかなか思いつかない。
だが、ロマンといっても阪神の助っ人外国人のことではない。


こんなロマンのあるフレーズを肥大化した過剰なコンプラ意識で読むと、
「過去からの旅人」=時効が成立した犯罪者となる。果たして何をやらかしたのかは気になるところだ。

そして呼んでる道とは、関係各所からの手配をかわしながら逃げた道のことだ。間違いない。


昔なら切ない恋の一節だ。相手にとって自分はただの景色の一部でした的な。

しかし肥大化した過剰なコンプラ意識で読むと、このフレーズは防犯カメラの記録としか読めない。午前8時14分、通りすがりの人物。黒い上着。少し挙動不審。なお、近くで警邏中の警察官が本人を発見し職務質問、本人は「たまたま通っただけでただの通りすがりです」と供述。


ここでこの曲のサビが完成する。
異国での一瞬の邂逅。ちょっとふり向いてみただけの異邦人=私。これ、よく考えるとハワイで外国人を呼ぶと日本人が来るみたいなややこしい話だ。それでも美しい余韻。

しかし肥大化した過剰なコンプラ意識で読むと、「ちょっと振り向いただけなんです」。まるでただの弁明である。

そもそも人はなぜ追い詰められると“ちょっと”を使うのか。

ちょっと遅れた。
ちょっと飲んだ。
ちょっと振り向いた。

ちょっとで済まないことほど、ちょっとと言いたがる。
後ろめたさがあるから“ちょっと”と言いたがるのだろうか。

そしてここで異邦人と表現されているが、ズバリ言う。
ちょっとふり向いたのは異邦人ではなく違法人だったのではないか。もちろん魔法陣は全く関係ないし首脳陣も関係ないし未亡人では決してない。


*****

俺は思う。

名曲とは時代を超える。それゆえに聴く人の時代を映す鏡であり、そこから新しい解釈が生まれる。

昭和にこの歌を聞いた人は「異邦人」にロマンを見た。知らない街、知らない誰か、見たことのない風景、遠い国。
しかし、今の人は毎日のように「違法人」のニュースを見る。さまざまなコンプライアンス違反、ついてまわる規約、SNSでの炎上、謝罪会見や謝罪文…….。

異国への憧れがあった時代から、違反を警戒する時代へと変わった。
それは旅情から事情になったということであり、純情愛情過剰に異常といえば当然小泉今日子だということだ。ヤマトナデシコ七変化だ。


もちろん誤解してはいけない。
コンプライアンスは大事である。ルールは必要だ。弱い人を守る仕組みもいる。昭和の「まあまあ」が多くの理不尽を見逃してきたのも事実だ。

だが、何でもかんでも危険、違反、不適切、とラベルを貼り続ける社会は、他人を監視し監視される社会は、やがて息苦しくなる。

知らない人は異邦人ではなく要注意人物になり、親切は下心と疑われ、冗談は記録され、軽口は叩くものから叩かれるものになり、事なかれ主義が蔓延し、降りかかる火の粉を払うことすら許されず、新しい挑戦は前例がないで止められる。俺みたいな生き方の人間はもうすでに窒息して死にそうだ。

そうして世の中から少しずつ物語が消えていく。

異邦人は、本来そんな歌ではない。
砂漠も旅情も恋もある、美しい名曲だ。

だが、名曲というものは時代ごとに別の意味を帯びることがある。
令和にこの曲を聴くと無意識に「異邦人」を「違法人」とつい聞き間違えてしまうのは今の世の中がそうさせているのかもしれないしそうじゃないかもしれない。そもそもこの曲を聴いてこんな解釈をしているのは俺だけだろうか。きっと俺だけだろう。


「コンプライアンスなんてぶっ飛ばせ」というトークライブの一翼を担う俺からすれば、「異邦人」とは、コンプライアンス意識が行き過ぎた社会を、40年以上前に予言していた社会風刺の歌なのではないかと思わざるを得ないわけだし、見ざる言わざる聞かざるといえば日光東照宮だし、名司会者といえば土居まさるに尽きる。


どうでもいいか。どうでもいいな。

 

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  • 上田 豪 広告・デザイン/乗り過ごし/晩酌/クリエイティブ


    1969年東京生まれ フリーランスのアートディレクター/クリエイティブディレクター/ ひろのぶと株式会社 アートディレクター/中学硬式野球チーム代表/Missmystop