ちょいと気になる㉝
おはこんばんちは。
広告探偵の上田豪です。
えー、みなさん。
今日は4月29日、すでにゴールデンウィークを満喫中の方もいると思うのですが、それってゴールデンウィークを満喫している最中なのか、ゴールデンウイークを満喫の中で過ごしているのか、どっちなんだろうとか思ったりしませんか?俺はしません。
さて、文字数の無駄遣いはほどほどにして、今日こそは地球に優しいエコロジーな文章を書いてみたいと思います。
世の中には「名曲」とされている歌がたくさんあるじゃんか。特に「ながら聴き」してるラジオからふいに流れてきた曲につい仕事の手を止められたりとかって経験は誰しもがあるじゃん。そういう気になる歌ってのは、やっぱり名曲だと思うわけ。
その中でもね、俺がちょいと気になった歌について、もっというと「その歌詞をどう解釈するべきなのか、ここではっきりさせておきたい歌」について、今日は語っていこうって寸法なわけよ。ちなみに一寸は約3センチ、一尺は約30センチな。
と、エコを意識して早速先週の文章を2ブロック分リサイクルしてみたわけですが、これってただのコピペだよねと気づいてしまったところで、今日も「いま何を読まされたんだろう」という読後感を味わえる木曜日。
例によって今週も見切り発車で着地点の見えない旅へ。
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はい。ちょいとおさらい。
先週ここで書いた「あの名曲を再解釈してみた①」はいかがだったでしょうか。
反響を見る限り、あまりのくだらなさにこれまで以上に俺の書く文章に呆れ果てた読者が増えてしまったような気がしないでもない今日子の吾郎なわけですが、それもすべてふざけた文章しか書けない俺に街角diaryを書けと命じたひろのぶさんの責任なので、顧みることなく、これからも「AIですら書きたくないような文章」を書いていきたいと思います。反省だけなら猿でもできる。
というわけで「あの名曲を再解釈してみた②」。
懲りずにシリーズ化するみたいです。暇つぶしにご覧ください。

まずはこの曲をじっくりとお聴きください。
はい。みなさんご存じ。
石川さゆりの名曲「天城越え」。
この歌の解釈を聞いてみると、答えはだいたい5つくらいに分かれます。(当社比)
「どう考えても恋の歌だろ」
「いやいや情念の歌だって」
「違うよ情愛の歌でしょ」
「これこそ激情の歌だよ」
「火曜といえばサスペンス劇場じゃん」
などと諸説あったりするわけです。
自分で人に聞いておいていうのもなんなんだけど、そもそも「天城越え」を恋の歌と捉えて聴くのは個人の自由なのである。自由ではあるのだが、あまりにも解釈が狭すぎないだろうか。結局は諸説どれも「恋愛」という領域から出ていないのである。
俺から言わせてもらっちゃうと、それって「表の看板だけを見て暖簾の奥を見ずに店に入ってしまう客」のようなものじゃないだろうか。しらんけど。
実は、長年ずーっと俺はこの曲に違和感を抱いてきた。ちょいと気になり続けすぎていまや元号が2回も変わっている有様だ。
俺がまず感じた違和感。
それは、「なぜここまで“越える”ことに執着するのか」ということだ。
恋の歌ならば普通に会えばいいし、別れの歌なら普通に別れればいいはずだ。にもかかわらず、峠を越える。滝を掠める。橋を渡る。トンネルを抜ける。たびたび山火事に遭遇する。それでもわざわざ天城山を越えようとする。
この歌はとても巧妙に男女の恋愛事情に見せかけてはいるが、みんな騙されてはいけない。これはズバリいって交通事情の話なのではないだろうか。
そこに気づいた俺は、それを切り口として例によって様々な思考を巡らせ続けた結果、ついにある結論にたどり着いてしまった。読んでみな。飛ぶぞ。
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結論から先に言う。
これは特に外資系企業に対するプレゼンの鉄則だ。といってもこの文章を外国人が読んでいるとは到底思えないがまあいいでしょう。
奥さんいいですか。
この曲の本質は、恋愛などではない。
この曲の本質は「KEISHOU」。
といっても、
景色が優れている方じゃないし、軽い傷の方でもない。
「継承」。つまり代替わりのことだ。
それを踏まえてここから先は、「天城越え」が情愛の比喩や単なる峠越えを歌ったものではなく「継承と引退」を表したドラマなのだという仮説を証明していこうと思う。
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かつて伊豆半島では、国鉄のL特急「あまぎ」が東京駅と伊豆急下田駅の間を結んでいた。

しかし1981年10月、惜しまれながらも「あまぎ」は引退し、後継となるL特急「踊り子」へその座を継承したのである。(脳内ナレーション:銀河万丈)

「あまぎ」が持つ、深い山や隠れ宿を連想させる重厚なイメージから、「踊り子」が持つ、文学や観光を連想させる軽やかなイメージへの転換。
「天城越え」というタイトルは、「あまぎ」の時代を越えて「踊り子」が伊豆半島を次の時代へ導くという決意表明であり、それはつまり、俺以外の人にはあまり知られていないが山口百恵の「いい日旅立ち」に代表される国鉄の旅行誘致キャンペーンソングなのだ。後半はもちろん嘘だ。
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それでは、歌詞を見てみよう。

この「移り香」とは何か。
それは決して恋人の香水などではないしドルチェ&ガッパーナの香水でもない。そんなトレンディな話ではない。なんだったらソフトボール界にいそうな女性の名前でもない。
ここでいう「移り香」とは、国鉄が誇る183系電車、L特急「あまぎ」の車内に染みついた旅の香りのことである。
モケット座席の生地、肘掛け灰皿の煙草、微かに香るブレーキの名残り、駅弁から漂う醤油の香り、ネットに入った冷凍みかん。
長年に渡って東京と伊豆を往復し、乗客を黙って運び、遅延にも顔色ひとつ変えず、熱海あたりで少し混み合う。そんな修羅場をくぐってきた特急だけが持つ風格。ヘッドマークを掲げ続けた誇り。消すことのできない「移り香」という名の旅の記憶。
その香りが、いつか「あなた」にしみついた。
ここでいう「あなた」とは誰か。
先代である「あまぎ」の地位を継承した「踊り子」のことである。
つまりこの一節は「あまぎ」が「踊り子」に語りかけているのだ。
伊豆半島の命運を背負い続け、そして引退間近の先代が、伊豆半島の次代を切り拓いていく二代目に向かってつぶやく。
「おまえには隠しきれない匂いがある。これは選ばれしものにあるもので、それは誰にも消せやしない」
俺の後を継ぐものはおまえしかいないと言い聞かせているわけですよ。
泣ける。
まるで鉄道版『日本統一』(伊豆編)である。
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続く一節。

早くも物騒である。
Twitterならアカウントが凍結されるし、昼のワイドショーで取り上げられたら大炎上だ。だが、安心して欲しい。この一節は比喩だ。ここは鉄道的に読めば意味は明快だし丹波哲郎といえば霊界だ。

つい現世から脱線した。鉄道の話なのに脱線とは縁起が悪い。
正気を取り戻して一節の前半はこう読む。
「踊り子を房総へ持っていく? 上野方面へ回す? ふざけんなよ。伊豆の跡目は伊豆で継ぐ」。
……ごめん。ついうっかり任侠的に読ませてしまった。
ええとね、つまりこの一節の前半は「まさか踊り子を他線区の臨時運用や別形式にもしてしまうつもりがあるなら、いっそこのまま伊豆だけで走らせてくれ」という、「あまぎ」に支えられてきたエンセン井上もとい沿線の市民や鉄道ファンの仁義なのですよ。
続いてコンプライアンス的にとかいちいちウルサイザンスとなりそうな一節の後半。
ここはね、「あまぎ」をはじめ数々の特急に採用された183系電車を愛してやまない一部の鉄道ファンが「新型車両なんて認めない!後継が185系?なんやそれ?ぶっ殺す!」と荒ぶっている様子を歌っているのだ。
ご存知の通り、鉄道ファンは鉄道のこととなると時に我を忘れる人種だったりするから、ここの読み方はこれで間違いない。
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そして核心に迫る歌詞がところどころに数々みられる。

実は特急「踊り子」には行き先が二種類ある。東京と伊豆急下田を結ぶ「踊り子」の中には、熱海駅で伊豆急下田行きと修善寺行きに切り離される編成が存在する。
つまり、この一節は、熱海駅に到着して扉が開くと行き先が分かれることを表している。歌詞では別れると表することで、あたかも恋愛の歌だと思わせるように偽装しているが、実はそうではない。引退するものと継承するもの、これまでの立場と別れることのメタファーなのだ。


ご覧の通り、歌の一番にも二番にも、偉大な地位を継承する「踊り子」の覚悟を感じる一節。

解釈が難しいこの一節。
ここまで説明した「継承と引退」のドラマが、そこに至るまで実はスムーズではなかったことを暗示しているのだ。
跡目争いというわけではないものの、「あまぎ」から「踊り子」へ代替わりしたことを受け入れられないものたちの揺れる心情。
「やっぱりあまぎについていきたい」
「いやこれからの時代は踊り子だろ」
「185系がなんぼのもんじゃい。男なら183系やろが」
任侠映画ならもはや内部抗争の予感しかない。
そんな不安定なさまを、恋という文字を用いて恋愛の歌だと思わせるよう巧妙に偽装していることがよくわかる。
そしてこの歌の最後のフレーズがとどめを刺す。
本質が「恋愛」ではなく「継承と引退」であることを決定づけるわけですよ。

ここでいう「あなた」とは誰を指すのか。
それは乗客のことではない。
この「あなた」とは、「あまぎ」を指しているのだ。
つまり先代の「あまぎ」に、二代目となる「踊り子」が継承に際しての心情を吐露しているのである。
「二代目を継承してもいつも心は先代と共にあります。この先の渡世には様々な苦難が待ち受けていることでしょう、それでも決して後戻りせず、地を這ってでも前に進んで、いつか先代を越えたいと思います」
どうよこれ。どうなのよ。
まさに美しい継承と引退のドラマ。
ガッツ石松的に言えば美しいバトンタッチ。
さらに言うと、この歌の本質が「継承」だということはサビでの石川さゆりの熱唱っぷりからも窺える。あの熱唱は女の情念などではない。

先代と二代目の継承盃の儀式が行われた日、
それは言い換えれば1981年10月のダイヤ改正。
継承と引退という節目の日、
その前日の緊張感が、当日の宴席で歌わなくてはならなかった石川さゆりを熱唱させたに違いないのだ。
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俺は思う。
名曲とは、時代を越えて新しい解釈を生むものである。
これまで「天城越え」は恋の歌でもあり、情念の歌でもあった。
だがしかし。
次にこの曲を聴くとき、これを読んだあなたはきっとこう感じるだろう。
ああ、この歌は引退と継承のドラマなのだと。
そしてサビに差し掛かった時、つい時刻表を開きたくなりつつ「ああ、豪さんって本当にバカなんだな」と思うはずなのである。
どうでもいいか。どうでもいいな。
上田 豪 広告・デザイン/乗り過ごし/晩酌/クリエイティブ
1969年東京生まれ フリーランスのアートディレクター/クリエイティブディレクター/ ひろのぶと株式会社 アートディレクター/中学硬式野球チーム代表/Missmystop





