ちょいと気になる㉜
おはこんばんちは。
広告探偵の上田豪です。
えー、みなさん。
今日はね、珍しく事前にテーマを決めて書こうと思ってね、これを書き始めてるんですよ。
なんかね、ラジオとは切っても切り離せない「音楽」というものについてちょいと語ってみようかとか思っちゃったわけなんだよね。なんちゅうかね。
でね、世の中には「名曲」とされている歌がたくさんあるじゃんか。特に「ながら聴き」してるラジオからふいに流れてきた曲につい仕事の手を止められたりとかって経験は誰しもがあるじゃん。そういう気になる歌ってのは、やっぱり名曲だと思うわけ。
その中でもね、俺がちょいと気になった歌について、もっというと「その歌詞をどう解釈するべきなのか、ここではっきりさせておきたい歌」について、今日は語っていこうって寸法なわけよ。ちなみに一寸は約3センチ、一尺は約30センチな。
というわけで、今日も「いま何を読まされたんだろう」という読後感を味わえる木曜日。
例によって今週も見切り発車で着地点の見えない旅へ。
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さて。
ここで書き始めてもう9ヶ月くらいにもなると、最近は特にね「豪さんの文章、本当に中身がないのに無駄に文章量だけ多くてエコじゃないしほんと勘弁してほしいこの時間泥棒!」という声もあちこちから聞こえてきたり、書いている本人もうっすらとそう思ってたりしなくもないので、今日はとっとと本題に入ります

はい。
あの名曲を再解釈してみた①とありますね。ってことはそのうち②もあるのでしょうか、ということは置いといて、
まずはこの2曲をじっくり聴いてから、その先を読んでくれたまえ。
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どちらも昭和生まれなら知らない人がいないんじゃないかってくらいの名曲ですよね。知ってた人も知らなかった人も、じっくり聴いてくれましたか?
どちらの歌も、ズバリいって恋の歌ですね。
そしてどちらの主人公も、どこか控えめで「私はこんな感じでいいんです」と言っているような、そして少し昭和の香りのする、令和や平成にはない健気な女性の純愛の歌なんじゃないか、
——と、ここまではみんな普通にそう思うわけですよ。
だが、ちょいと待ってほしい。
そんな結論を出すのは早慶すぎやしないだろうか。それじゃ伝統の一戦だ。早計すぎだ。お楽しみはこれからだ。
はい。再定義開始。
よく聴くと「待つわ」の主人公は、なかなかどうして結構なことを言っている。

いつまでも待つわ、って何年? 2年?5年?サブスクの無料期間でも今時そんなに長くない。むしろ更新の意思が強すぎる。いつまでも待つわなんて、そこになんらかの確信がなければ言い切ることなどできないはずだ。したがって「いつまでもまつわ」と言えるのは神奈川のブランド鯖だけだ。
こうなってくると、待つというより、もはや据え置きと言ったほうがしっくりくるかもしれない。据え置き型恋愛。冷蔵庫の奥に眠っているいつ買ったのか覚えてない漬物くらい熟成する覚悟。賞味期限はないのか。
一方で「まちぶせ」の方はどうか。
すでにタイトルの時点で、やや物騒だし不穏だ。ちなみに俺の若かりし頃は残念ながら男たちに待ち伏せされたことしかない。まちぶせと聞けば鉄の味を思い出す。そういう人生もあるのだ。

「まちぶせ」の主人公は、「待つ」ではなく「待ち伏せる」。偶然を装って会うというのは、言葉にするとロマンチックな気もするしそんな解釈が許容されていたのは昭和だったからで、令和の今となるとしっかりストーカーの域に踏み込んでいる気がしないでもないし、その偶然の精度が高すぎると途端にGPSの匂いまでしてくる。
そもそも偶然ってのはそんなに狙えるものなのだろうか。一軒め酒場でばったり出会うくらいが偶然の相場じゃないのか。
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俺はちょいと気になっちまった。
「待つわ」も「まちぶせ」も、本当に一途な恋心、純愛を歌った曲なのだろうか、と。
そこで、ほんの少しだけ舞台をずらしてみることにする。
昼から夜へ。すると、見え方が変わる。
その舞台とは、大人の夜の店。
綺麗なおねいさんが客の横に座って一緒に酒を飲んでくれる類いの店が舞台だと想像してみてほしい。そうなると、どちらの主人公もその店のホステスである。彼女たちは、できることなら「太客」に気に入られて指名されたい。しかしその太客が指名しているのはライバルのホステスなのだ。そんな日常を表した歌だったとしたらどうだろう。
「純愛」と感じていたものが「営業戦略」に見えてこないだろうか。
「あ、豪さんまたいつもみたいに強引な設定に持っていった」と思うそこのあなた、そう思うのも無理はないし俺もそう思う。だがしかし。この2つの歌には、それぞれ俺の仮説を証明するために手掛かりとなる歌詞があるのだ。
まず「待つわ」から。

いきなり聴くものの心を鷲掴みにするこの歌詞。鷲掴みをガッツ石松的にいえばイーグルキャッチ。
「待つわ」の主人公は、こんなセリフが聞ける環境に日々身を置いているということだ。いくら昭和でも普通こんなセリフはなかなか言えないし聞けない。なんなら往年の三原順子の名セリフ「顔はやばいよ、ボディやんな!ボディを!!」(各自調査)に近いものを感じるのは俺だけだろうか。

そして決定的なのがこの歌詞。
この主人公は、ライバルのホステスと太客がいるテーブルへ、仕方なくヘルプで席につきその場を盛り上げなきゃならなかった場面を歌っているのだ。
そして「まちぶせ」。
こっちはもう状況証拠だらけだといっていい。

これは間違いなくライバルのホステスと太客の同伴出勤前の光景である。そしてそれを目撃した「まちぶせ」の主人公は「見覚えある二人」といけしゃあしゃあと言っているが、そもそもその喫茶店で2人が来るのがわかってて「まちぶせ」してるわけで偶然じゃねえやんけ。

これこそわかりやすい。
ライバルのホステスと太客のテーブルにヘルプについた時の様子ですね。気のないそぶりして淡々とお酒を作りながら太客にアイコンタクトしてた訳ですね。間違いなく古畑任三郎なら絶対見逃さないポイントですこれ。

そしてまさかのチャンスがやってきました。ライバルのホステスは太客から指名を外された訳です。とはいえ自分から指名してとはいえない。プロのホステスとしてのプライドですきっと。
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どうですか。
「待つわ」も「まちぶせ」も、純愛の歌ではなく、太客の指名を巡るホステスの歌なんですよ。
ただね、「待つわ」のホステスと、「まちぶせ」のホステスは、はっきりと営業戦略が違うわけ。
「待つわ」のホステスは、動かないタイプ。
連絡も、たぶん最低限。相手の生活に踏み込みすぎず、ただし関係は切らさない。来るときは来る、来ないときは来ない、それでもこちらは変わらない。「いつまでも指名を待つわ」なのである。
それに対して「まちぶせ」のホステスは、動くタイプ。
相手の動線を知り、タイミングを合わせ、偶然という名の必然を設計している。「え、こんなところで?」という顔の裏で、綿密にカレンダーをチェックしている気配がある。本当にGPSを仕込んでいるかもしれん。かなりストーカーチックであり戦略的でもあるのだ。
しかし面白いのは、どちらも“待つ”という同じ言葉を出発点にしているのに、それぞれがやっていることはほとんど正反対なことだ。
「待つわ」と「まちぶせ」。
どちらも同じ方向を向いているようでいて、立っている位置が違う。
来るまで待つのか。
来させるために待つのか。
受動なのか、能動なのか。
静かに置いておくのか、静かに仕掛けるのか。
思わず織田信長と豊臣秀吉と徳川家康にホトトギスについて語らせたくなったりもするがそうなるとやっぱり恐山にいくべきだろうか。
大体からして恋愛というのはそこにある「戦略」を柔らかいロマンで包んで差し出すものだ。そしてそれを差し出された方はそれを疑わずに受け取ったのちに、そこにある意図に気づいた時にほくそ笑んでもらえるかどうかまでを設計するものではないのだろうか。
なんつってこれ、実は恋愛論なんかじゃなくて営業論なんだからな。
そんでもってこの話、オケタニ教授との次のトークライブ用に考えてたのにうっかり書いてしまったし、また3,000字を超えてしまった。
どうでもいいか。どうでもいいな。
上田 豪 広告・デザイン/乗り過ごし/晩酌/クリエイティブ
1969年東京生まれ フリーランスのアートディレクター/クリエイティブディレクター/ ひろのぶと株式会社 アートディレクター/中学硬式野球チーム代表/Missmystop





