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2026年3月11日「街角diary」廣瀬翼がお届けします。

廣瀬 翼


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「それでも、忘れられるよりずっといい」と彼女は言った

15年。
私にとっては、大学で上京してから15年でもある。

立教大学への入学を決め、4月からは川崎の親戚宅にお世話になる予定だった私は、あとは卒業式と部活仲間との卒業旅行を待つのみだった。

あの日、私は大阪の実家のリビングで妹・母と昼寝をしていた。15時前、わずかな揺れを感じて3人とも起き上がり、「どこかで地震あったかな?」とテレビをつけた。

驚いた。まさか東北の地震で大阪が揺れるとは思わなかった。東京も大変な様子。川崎のおじさん家族と祖母は無事なのか、何を確認すべきなのか。

夕方早めの時間に、川崎の親戚にはSkype(当時はZoomはなく、Skypeだった)で無事の確認が取れたので、その日早い段階で家の中は落ち着いた。

けれど、私は不安だったことをよく覚えている。

大学は、あるのだろうか? 私は、大学生になれるのだろうか……?

しばらくして大学から連絡があり、入学式は中止に。授業は1ヶ月遅れて、5月からの新生活スタートとなった。

式典ごとなんて「話が長い」みたいな記憶しか残っていないものだけれども、入学式に「行かなかった」ではなく、「行く選択肢・機会がなかった」ということが、ちょっとだけ今でも私を後ろに引っ張っている。

私が今でも後ろに引っ張られているのは、同級生の多くは普通に入学式があり、4月から大学生だったからというのもあるだろう。

関西大学附属の高校だったから、多くの友人はそのまま関大生になる。関西では当たり前に予定通りに入学式が開かれた。

春休み中は、友人に会えた。友人の入学式にも、大学の近くまで行って、式終わりの友人たちに会った。けれど、彼らの授業が始まると、やることも会う人もなくなった。

自分の所属が宙に浮いて、ただ親にお世話になっているニートのような1ヶ月を過ごした。やることがない、役に立つ気がしないって、結構しんどいと感じた。

上京したらしたで、街にはどこか緊張感が漂っていた。

池袋の駅から大学へ向かう地下道は、受験の時の煌びやかさは息を潜め、3つに1つしか電気がついていない空寒い空間になっていた。授業中に余震が起きては、あちらこちらの席から地震速報の警報音が鳴る。当時はまだみんながスマートフォンに使い慣れていなかったこともあり、自分のスマホにそんな機能が付いているとは知らない人も多かった。あの音は、心臓に悪い。

とはいえ、大半の時間は“日常”で、興味深い授業もあり、大学生活は楽しさも思い出もたくさんできた。上京して通わせてもらえ、両親にもお世話になった親戚にも感謝している。

ただ、当時の私は慣れない東京、片道1時間半の通学(初めての電車通学だった)、イチから関係を築くコミュニティ、親戚の家でお世話になっている生活の遠慮、エスカレーターから転げ落ちた祖母の介護……それだけでも自分のことにいっぱいいっぱいだった。そこにどことなく漂っている不安だ。外部受験をせずに友人と一緒に関大に上がったらよかったかなと、余震の頻度が落ちる夏頃までは、正直何度か思ったことがある。

翌年3月、1年から2年にあがる春休み。ベトナムのハノイで6週間、他の国から来たメンバーと現地の大学やインターナショナルスクールへワークショップを届けるプロジェクトに参加した。

一緒に活動していたのは、日系ブラジル人の女の子。私より年上で、記者の経験もあり英語はペラペラ。日本へも「自身のルーツを辿る」と4ヶ月ほど来ていたことがあった。うち3ヶ月は愛知県の工場で朝から晩まで働き、疲れて髪のケアもまともにできず少しでもシャワーを短縮したいと髪はバッサリ短く切ったという。その賃金を旅費にあて、残りの1ヶ月で日本を旅して回った。

「日本はあるべきものがあるべき場所にあって、好き」
「ご飯が美味しい」
「あそこがきれいだった」

彼女はよく日本について話題にしてくれていたが、話すのは1ヶ月の旅行についてが9割。工場での仕事は「1番最初に覚えた言葉は『おつかれさまでした』」というくらいで、あまり聞かなかった。

その彼女が、ワークショップの打ち合わせ中に、期待の目でこう尋ねてきた。

「震災について、ワークショップで話してほしい。あんな量の瓦礫を、どうやってあんな短期間で解決したの? どうやって短期間で回復したの? そういう話を、interestingにやってほしい」

しばらく、理解できなかった。

回復した? 解決した? なんのこと? interesting? 震災の話題が? なにを言っているの?

当時は、やっと震災から1年が経とうとしていた頃。解決なんてしていなくて、まだまだ問題は山積み。大きな瓦礫が撤去されたとしてもすぐにその土地を使えるわけでもない。まだ、解決も回復もしていない。

そういうことを伝えなければとモヤモヤしていたのに、何も伝えることができなかった。

英語力の問題だけではない。私は、それまでに一度も被災地を見に行ったことがなかったから。ニュースやネットで見たことは伝えられるけれども、生の声を何も知らない。日本人としてここにいるのに「こうニュースでは流れている」と二次情報の伝聞しかできない。

私の様子に、彼女はこう言った。

「なんで話せないの? なんでできないの? あなた自身の国のことでしょ?」

彼女は時間をかけて、苛立つ私の話を聞いてくれた。そうして、interestingはfunnyではないこと、「瓦礫の問題は実は解決していない」という話も自分たちは知らないから関心深い事実であること、なら今の課題はなにであるのかを知りたいことなどを話してくれた。

それも、けれど私は見てきたわけではない。すごくもどかしく、悔しく、日本から海外に出てきた人間として恥ずかしく思った。

2年後の2014年、大学4年時。1年間の休学で、2度目のベトナム渡航を決めた。滞在期間は半年。インターン生として、日本へ留学予定の学生たちへ日本語を教える仕事を受けた。

授業の中で、地震や東日本大震災について語る機会もあるかもしれない。今度は同じ思いをしないように、ちゃんと正しく伝えるために、せめて実際に被災地を見ておこう。そう思い、渡航前に陸前高田へ行くことにした。

行き先を陸前高田にしたのは、友人が大学の有志のプログラムで訪問した話を聞いていて印象深かったこと。その話で「みんなの家」があるのを知っていたからだ。

行く、と決めたのは急だった。ベトナムへ発つまであと1ヶ月ほどというタイミングで、なにが準備できるだろうと考えている中で、あの1年生の春休みを思い出したのだ。

釜石のホテル、レンタカー、岩手までの夜行バス。全てが手配できてから、陸前高田へ向かう3日前に「みんなの家」へ訪問希望のメールを一通送った。

釜石から陸前高田へ車を走らせる。目に入ってきた景色は、思っていたものとだいぶ違っていた。道路の左右にただただ広がる盛り土。茶色の壁の間を車で抜ける。まるで古墳かピラミッドでも建てようとしているみたいだな、と感じた。

あとで聞いた話によると、この盛り土は津波が到達した高さまでつくられていたそうだ。次に津波があっても流されないように、土地自体をあげているという。

何にもない、ただ綺麗に計算された通りに土が高く固めた間を、道路がスーッと通っている。かつて街であったであろうところには、土の壁と時折ある信号が光るのみで、人っ子一人見当たらない。

瓦礫や建物が残っている状態以上に、全て綺麗に取り払われて何もないことのほうが、残酷に思えた。同時に、この時すでに震災から3年経っているのに、まだ盛り土だけで何も街らしくないことも衝撃だった。

ここにあったであろう生活は、ここにいたであろう人々は、どこへ行ってしまったのだろう?

Google map とカーナビを掛け合わせて、なんとか迷うことなく「みんなの家」へたどりついた。

「みんなの家」は地域住民とボランティアの集まる場所として開かれたスペース。その建物が独特であることでも有名で、海外から建築の見学に人が来ることがあるという。津波の塩害で立ち枯れしたスギの丸太19本を柱に、階段が外周を回るように設置された木造2階建てだった。

脇のスペースに車を泊めて玄関をくぐる。少しして、ここを管理している女性が私より先に来ていた工事業者と思われる人の対応を終えて、階段から降りてきた。そうして、彼女は私に、こう言った。

「今日はね、朝からここの家の修繕とかもあって、すっごく疲れてるの。だから、申し訳ないけども、話すのは勘弁させて。建物は見て行ってもらっていいから。本当に、今日は疲れているの」

来たら、きっと何か聞ける。何か知れる。そう思って訪問したけれど、当事者たちには当事者たちの今の生活がある。もう思い出したくも話したくもないかもしれない。

私は、興味本位で来た野次馬と変わらないのではないか? 自己都合で、人の中に土足で踏み込んでしまったのでは? 相手の傷をえぐることになる可能性を微塵も考えず、何も知らないでただ「見なきゃ」で来た私の無知は、とても失礼なのではないか?

何が正しいのか、自分がどう振る舞うべきかもわからず、展示と建築を少し見てから彼女に頭を下げて「みんなの家」をあとにした。

去り際、彼女は「この辺りでお昼を食べていくなら、あそこにそば屋があるから。車も停めれるよ」と声をかけてくれた。

自分の無力さと無知さ、ちっぽけさに落ち込みながら、ひとまず昼食をとりに教えてもらった近くのそば屋へ向かう。お店の名前は「やぶ屋」。グレーのプレハブ仮設店舗だった。地元の人も愛用しているようで、扉の前に家族連れが数組並んで待っていた。

慣れない様子で待つ私に、私の一つ前に並んでいた女性が優しく語りかけてきてくれた。

「東京の方ですか?」

学生であること。海外に行く前に、ちゃんと自分の目で見ておきたいと思って初めて来たこと。けれどそれは、当事者の領域に土足で踏み込むようなものなのではないかと感じたこと、この後の時間をどうしたらいいか途方にくれていること……。

「そうですか」と優しく合図ちを打ちながら聞いてくださる女性に、いつしか私は震える声で感じたことを話していた。すると女性は、こちらに少し向き直って、こう声をかけてくださった。

「確かに、思い出したくないこともいっぱいありますし、外から人がいらっしゃって話すたびに思い出してしまうこともあります。だけど、それ以上に、忘れられることのほうが怖い。だから、こうして自分の目で見たいと来てくださるのは、ありがたいことなんですよ」

「なかったことにはできませんから、それなら忘れないでほしい。日本では今後も地震は起こるでしょうから、忘れないで次の教訓に生かしてほしい」

そうして、彼女の家族の順番になった。お店に入るときに一言、私へこう言ってくれた。

「一本松はもう見られましたか? せっかくここまでいらしたんだから、見て行ってくださいね」

私はなんと答えたのかもどんな表情をしていたかも、もう覚えていない。ただ、救われたような気がして、泣き出しそうだったような気がする。

「やぶ屋」の蕎麦は、甘めで美味しかった。蕎麦をすすりながら温まっていると、スマホに電話がかかってきた。出てみると、先ほどの「みんなの家」の女性だった。

「あなた、今どこにいる? まだ近くにいるなら、戻っておいで」

話をしてくれる人がいらっしゃったという。

急いで蕎麦をかき込んで、再び「みんなの家」に向かうと、老夫婦が和やかに待ってくださっていた。

管理されている女性が、「自分は疲れていて話す気力がないけれど、せっかく海外に行くのに伝えたいというのであれば、せっかく自身の目と耳で知りたいと来てくれたのなら」と、話せる方を探してくださったのだ。

嫌がられたのではないか、迷惑がられたのではないかと思っていたのに、人を探して連絡をくださったなんて。こんな小娘のためにご夫婦そろってやって来てくださり、にこにこと待っていてくださるなんて。

一言も聞き逃すまいと思いながら、お話をうかがった。

震災当日のこと、変わってしまった生活のこと、仮設住宅について、震災が起こる前の生活について……そのご夫婦は何一つ包み隠さず、穏やかに話してくださった。

運転しながら見てきた景色については、盛り土が完了したら、その上にまた家を建てて仮設住宅の人に戻ってもらうという計画なのだという。そうして、少しつらそうな表情とため息交じりの声で、こうおっしゃった。

「少しずつ工事は遅れていて、いつになったら戻れるのやら。すでに見切りをつけて別の土地に移ってしまった人もいる。もう絶対にあそこには戻りたくないという人もいる。たとえ建物が変わっても、生まれ育ったこの地を離れたくないという人もいる」

「私たちも、できればここを離れたくはないけれど。でも、工事が終わった後の地が元の景色に戻るわけでもないし、もう元の生活はできないから、もしかしたら残るほうがつらいかもしれない

きっと、つらい。にこにことしながらお話しくださっているけれど、きっと今だってまだまだこのお二人もつらいのだ。

それなのに、なぜ痛みを越えて話してくださるのだろう……素直に、そのまま聞いてみると、老夫婦は「お子さんを亡くされたご家族なんかは、もう震災についてもそれ以前の生活についても一言も話したくないという方も、中にはいます」と前置きした上で、語った。

「私たちは2人とも命だけは無事でしたし、こうしてお話しするのも一つ役目かもしれない。起こってしまったことは起こってしまったことですし。できれば思い出したくないという思い以上に、忘れられたくないし、知ってほしいという思いもあります

それは、先ほど蕎麦の「やぶ屋」で話した女性と同じ言葉だった。

一方で、少し間を置いて、付け加えるようにこうも言っていた。

「とはいえ、こうして落ち着いて話せるようになるまでには、少し時間は必要でした」

別れ際、「今日は泊まっていかれるんですか?」と聞かれた。釜石のビジネスホテルを取ったことを伝えると、お二人は上機嫌にこう返してくれた。

「岩手県内に泊まってくれるんだったら、それで十分ですよ。岩手に泊まってくれたら、それがどこであっても岩手に落ちるからね。それが、私たちの生活や復興に役立ってくれるから。ちゃんと岩手に泊まってくれて、えらい!」

今年、お正月に実家でテレビを見ていたときのことだ。

笑顔だらけの特番の合間に、短く差し込まれたニュースだったか特集だったか。能登の女性のインタビューが印象的だった。

——元旦だったから、まだあれから2年で解決していないことだらけなのに、ニュースもSNSも能登のことはほとんど話題にならない。10年以上経っても東日本大震災は毎年特集されるのに、能登はまるでなかったかのように感じてしまう——

改めて、あの日聞いた彼女たちの言葉を思い出した。

「忘れられることのほうが怖い」

最初は、今日の「街角diary」をこの日の話題にしようか、普通の日記にしようか、迷った。けれど、迷ったとき、やっぱり彼女たちの声と言葉が、耳の奥に蘇ってくるような気がした。あの日、優しく受け入れてもらって、言葉を尽くして経験や思いを渡してもらった私は、この話を避けてはいけないような気がした。

来年も書くかは、わからない。けれど、15年という大きな節目。ここで話題にしなくなれば、そのまま忘れ去られていってしまうから。そしてそうなれば、能登や熊本、他の多くの地域の地震や豪雨被害なども、同じように届けられなくなっていってしまうだろうから。

本記事は、2016年に記し2018年に再編集して公開したnoteを元に、改稿して「街角diary」に載せた。

書くにあたって、当時の写真を探してみたが、見つけられなかった。いくつかは撮っていたはずなのだけれども、どこに保存したのかの記憶がもうない。当時はよく写真をFacebookにアップしていたけれど、そこにもなかった。そもそも、撮った写真も少なかった気がする。

たぶん、撮らなかったのではない。撮れなかったのだろう。
SNSに上げなかったのではない。上げられなかったのだろう。

陸前高田を一人で訪れ、そしてそこから帰ってきたばかりの私は、きっと消化しきれない何かを抱えていたのだと思う。

でも、さらに時間が経った今は、逆に写真が見つからずこの記事に載せることがなくてよかったかもしれないと思う。街の姿は、私が訪れてからも大きく変わっている。

「みんなの家」は、当時建てられていたところはかさ上げ区画に入っており、2016年に一時解体。その後、場所を移して陸前高田の中心街に再建され、現在は「おかず屋和笑輪(わわわ)」の飲食スペースになっている。

現在の「みんなの家」(出典:高田旅ナビ)

途方に暮れていた私に女性が声をかけてくれた蕎麦の「やぶ屋」は、2017年に震災前に店舗があった中心街に新しい店を構えたという。

陸前高田まちなかテラス内「やぶ屋」(出典:さんりく旅しるべ)

「やぶ屋」の店主は、毎日新聞で複数回にわたり取材を受けている。5年前の2021年、東日本大震災から10年の節目のインタビュー動画では、未来への笑顔が見えていた。

あの日、私に声をかけてくださった女性は、「みんなの家」でお会いした女性と老夫婦は、今もお元気だろうか。笑って過ごしているだろうか。

いつかまた、歩み続ける陸前高田を訪れたい。そうして、あの時はありがとうございましたと、人にも土地にも伝えたい。

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    1992年生まれ、大阪出身。編集・ライター。学生時代にベトナムで日本語の先生を経験。食物アレルギー対応旅行の運営を経て、編集・ライターとなる。『全部を賭けない恋がはじまれば』が初の書籍編集。以降、ひろのぶと株式会社の書籍を担当。好きな本は『西の魔女が死んだ』(梨木香歩・著、新潮文庫)、好きな映画は『日日是好日』『プラダを着た悪魔』。忘れられないステージはシルヴィ・ギエムの『ボレロ』。