人間社会は、じつは言葉でできている。
映画『日本のいちばん長い日』
ふだん広告代理店でコピーライターやCMプランナーをしている僕が、映画や音楽、本などのエンタテインメントを紹介する田中泰延のエンタメ新党。
「かならず自腹で払い、いいたいことを言う」をこの映画紹介のルールにしています。どちらかというと、観てから読んだほうが話のタネになるコラムです。
連載もあっというまに半年が経ちまして、なんとなく頼まれて始めた「おっさんが飲み屋でしゃべるような映画話」も15回を迎えました。ですがまだまだ通過点です。50回、100回と続けていかなくてはならないのです。僕が励まされる言葉に、ガッツ石松さんのこんな名言があります。

「僕の好きな言葉は、“五十歩百歩”だね。僕はプロボクサーとして、一歩一歩努力してね、五十歩、百歩とがんばって世界チャンピオンになったんだよね」
・・・あのう。本当にガッツ石松さんはこんなことを言ったのでしょうか。これは一説には『徹子の部屋』で黒柳さんの質問に答えた時の事件、といわれています。しかも黒柳さんが驚いて「それがガッツさんの座右の銘ですか?」と確かめると「左が1.5で、右が1.0」と答えたという話も伝わっています。それは「左右の目」や。
いや絶対作り話だろ。しかしこんなふうに、まことしやかに伝わる話、というのがあります。この人ならいかにも言いそう、という台詞は、確かめられもせずに広まってしまうのです。これを、「エビデンス(証拠)がない」状態といいます。たとえば歴史なら、おおもとの資料や原典、政府の公式記録などを記載した「一次資料」がないと、エビデンスがあるとはいえません。エビデンスを確かめないで文章を書いたり、映画を作ったりすると、間違いや想像の入る隙間が大きくなってきます。
僕も最近まで、エビデンスというのはエビが入居するレジデンスのことだと思っていました。海老たちが暮らす高級マンションを想像していましたが、一次資料を確かめればよかったですね。
今回は、そんなエビデンスの大切さと、歴史に対する解釈について考えるきっかけになる映画を観ました。『日本のいちばん長い日』。予告篇をご覧ください。
出典:YouTube
監督・脚本は、原田眞人。

この連載で6月に採りあげた『駆込み女と駆出し男』に続いて今年2本目の映画です。すごいペースで映画を撮ってる、と思ったんですが、『駆込み女と駆出し男』とプロデューサー、カメラマン、美術、衣装、音楽、編集、そして主要キャストと多くの部分で共通です。たて続けに撮ったわけです。江戸時代と、昭和20年、全く違う時代を描いている2本の映画ですが、これら共通する製作体制は大きな意味を持っています。そのあたりは後ほど。
『日本のいちばん長い日』といえば、まず、半藤一利(発表時は大宅壮一の名義)の原作があります。

そして、それをもとに作られ、1967年に公開された岡本喜八監督の映画があまりにも有名ですね。

予告篇もご覧ください。
出典:YouTube
僕、これがテレビで放送されているのを小学生低学年ぐらいの時に観て、話はよくわからなかったけど、ものすごくトラウマでした。コントラストの高い、ギンギラしたモノクロの映像、冒頭いきなり出てくる東京大空襲の記録映像に映る死体、死体、死体。常に人が言い争っている異様な緊迫感。8月の話なんで全員汗でビショビショ。しまいには首は転がり、切腹したり頭をピストルで撃ち抜いたりして、なんかもう恐ろしいものを観たぞ、という記憶だったんですよね。
今回、あらためて観てみました。怖かった原因がわかりました。



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黒沢年男が怖かったんですよ! 僕、もう小学生じゃなくって本当によかった。僕も大人になりましたし、黒沢年雄もすっかり怖くない感じになりましたし芸名も一文字変わりました。

それはおいといて、映画は昭和20年、日本が連合国に対して敗戦を受け入れる過程を描きます。まさかと思いますが、いまどきは、日本とアメリカって戦争してたんだぞ、というと「えっ? いつッスか? どっち勝ったんスか?」っていう人もいるらしいので念のために書いておきますね。
70年前、日本とアメリカは戦争してたんですよ。それどころかイギリスとも、中国とも戦争してたのです。四面楚歌です。日本と戦争していたこれらの国を連合国といいます。で、その連合国が昭和20年7月、「日本は降伏しなさい。敗けましたと認めて占領されなさい」と書いてよこした文書を「ポツダム宣言」といいます。それを受け入れるかどうか議論している間に、広島と長崎に原子爆弾が投下され、ソ連まで参戦してきて、8月15日、ついにラジオから昭和天皇の終戦の詔勅、いわゆる「玉音放送」が流れます。
あらためて観ると岡本版映画は、ポツダム宣言受諾から玉音放送までの8月14、15日を巡る攻防に絞って、タイムサスペンス的なエンタテインメントとして滅法おもしろい劇映画になっています。出演も、当時の東宝のオールスターキャスト。戦後たったの22年にしてあの出来事を、あえて言いますけど娯楽超大作にしたエネルギーは凄いというしかありません。
対して、今回の原田版は、昭和20年の春から始まり、戦争を終わらせるまでの数ヶ月を語っています。また、前作と大きく違う点は昭和天皇を正面から描いていることです。その意味ではまるでリメイクのように聞こえる『日本のいちばん長い日』という題名より、副題としてついている “ THE EMPEROR IN AUGUST ” のほうがふさわしい感じですね。今回の原田版は、48年前の映画からさらに時間が経って、終戦時の事実関係、またそこで動いた人間像に関して研究が進み、いろんなエビデンスが出てきた成果を反映して、原田監督なりの真実を描写しようと考えたものだと思います。
監督が映画に織り込んだのは同じ半藤一利が鈴木貫太郎総理大臣と昭和天皇との関係を中心に書いた、『聖断』。また、阿南惟幾陸軍大臣の人となりを詳細に取材した角田房子の『一死、大罪を謝す』。
僕も、この映画を観てから自分なりのエビデンスを求めて上記の本はもちろん、色々買って読んでみました。鈴木貫太郎『鈴木貫太郎自伝』、迫水久常『大日本帝国最後の四か月』、藤田尚徳『侍従長の回想』、寺崎英成『昭和天皇独白録』、防衛庁戦史部『昭和天皇発言記録集成 全2巻』・・・もう今回の原稿料なんか関係ありません。大損です。とりわけ、いちばんエビデンスとして機能しそうな宮内庁編纂の公式記録である『昭和天皇実録』はまだ第二巻までしか刊行されてません。今のところ大正九年までしかわかりません!

・・・いろいろ読んで思ったことは、結局、歴史を語る作業は、それぞれの人の思い、願望を込めたものにしかならないと言うことです。上記の本も、すべてそうです。
だから、映画『日本のいちばん長い日』も、ドキュメンタリー風タッチで進んでいきますけど、原田眞人監督のひとつの主観であり、ひとつの娯楽作品であることを念頭に置くことが肝心なんじゃないかと思います。
では、なぜ、原田監督はこの映画をいま撮ったか。戦後70年の節目で、現在の政治状況に対するメッセージや、原田監督の歴史観を素直に受け取るのも、これまた映画を狭く考えてしまう見方となります。前回観た大岡昇平原作、塚本晋也監督の『野火』の回でも述べましたけど、映画を観た感想がステレオタイプな「テンプレ」の言論に行き着くのは、非常にもったいないことです。『アメリカン・スナイパー』もそうなんですけど、映画の一部を取り出して、激しく支持したり、激しく非難する行為は、「前から自分が叫びたかったこと」を見つけているにすぎません。
さて、映画は3人の登場人物が軸になっています。
1人目。終戦を天皇に託された首相である鈴木貫太郎。

原田監督の前作、『駆込み女と駆出し男』でも滝沢馬琴という重要な役を演じていた山崎努が扮します。
2人目。ギリギリまで本土決戦を唱え、切腹して果てた阿南惟幾陸軍大臣に役所広司。

役所広司にはいろいろ言いたいことあるんですけどね。あなたね、太平洋戦争を始めるときは海軍で真珠湾攻撃して(『連合艦隊司令長官 山本五十六』)、戦局が不利になってきたらスイスで諜報活動して(『アナザーウェイ D機関情報』)、敗色濃厚になってきたら潜水艦に乗って(『終戦のローレライ』)そんでいよいよ最後は陸軍大臣として切腹って、だんだんワケわからんようになってきたわ。しかも切腹って、去年も『蜩の記』で腹切ってませんでしたか。いろんな役で主演しすぎです!
で、ここで重要なのは、この二人の人物造形が、岡本喜八版の映画と逆になっていること。
岡本版の鈴木貫太郎は笠智衆。阿南陸相には三船敏郎。


仙人みたいに柔和な笠智衆の鈴木総理に、剛毅なサムライの阿南。この人物像が、すっかり違うものになっているのです。

天皇に懇願され引き受けた終戦のための総理大臣。連合艦隊司令長官も務め、2・26事件で銃弾を受けても生き残った歴戦の勇者としての鈴木貫太郎を、老獪でしたたかな政治家として演じる山崎努。

また、本土決戦を主張する陸軍将校たちに嘘の電話をかけてまで抑え込もうとする阿南陸相。前作では見られなかった家庭での温厚な顔も、エビデンスとなる新資料に基づいて繊細に演じる役所広司。
この新しい人物造形こそ、ものごとは多面的に見ようよ、と考えた原田監督が線を引いた設計図ではないでしょうか。
3人目。そしてなんといっても、昭和天皇。

岡本版では、天皇は後ろ姿などで、全体を写さない配慮がされていました。これまでには、ロシア映画『太陽』でイッセー尾形が演じ、アメリカ映画『終戦のエンペラー』に登場した昭和天皇はありましたが、日本映画で昭和天皇が真っ向から演出されたのは初めてです。本木雅弘が挑んだ、一人の人間としてのこの役の難しさは空前絶後だったでしょう。原田監督による昭和天皇の造形は、思慮深く、慈愛と覚悟に満ちた人物像です。
映画は、この3人が中心になって進みます。特筆すべきは、3人の関係を「家族」として捉えている点です。映画の冒頭で、鈴木貫太郎は侍従武官長として若き天皇に慕われており、侍従武官である阿南惟幾が天皇の軍服の皺を引っ張って直すシーンが描かれます。鈴木貫太郎を父、阿南が長男、天皇が次男という擬似家族的な信頼による連携が戦争を終わらせた、というストーリー上の背骨がここにあるのです。

その「家族」の父である鈴木は「天皇は国事の決定に関与しない」と言う明治憲法のルールを破り、「天皇の聖断」という手続きを無視した手法をあえてとります。これしかなかったのです。戦争責任に関してある意味スリリングな手続き論に踏み込んでいるのもこの映画の特徴です。
またその「家族」の父である鈴木は疑似長男である阿南が責任を取り、必ず自死することをわかっていながら、国内の動乱を抑え込む大役を負わせます。「国体の護持」、つまり天皇が占領軍に処刑されるかどうかについて最後まで心配する阿南に天皇は、「もう心配しなくともよい。私には確証がある」と言います。これは事実上、阿南が死ぬことを意味する優しくも恐ろしい言葉です。

かくて天皇は聖断します。そのシーンが公開されているのでご覧ください。
出典:YouTube
結果、始めるより終わらせる方が「はるかに難しい」戦争を終わらせるという難事業を成し遂げた天皇はどうなるか。映画は最後のシーンで答えています。それは、ラストでひとりラジオに向かい合う姿です。天皇は難事業の果てに疑似家族を失い、孤独を引き受けるのです。
これはあくまで映画的に表現された原田眞人監督による主観であり、エンタテインメントだと先に書きましたが、ほかにもいろいろな特徴があります。

あの岡本版のトラウマ黒沢年男とは全然違う人物造形が試みられた反乱軍の畑中少佐。演じる松坂桃李の抑えた演技。そして大変な歴史的事件でも、裏では人間はわりとグダグダ会話しているし、日常もある、というのが原田流。岡本版は汗びっしょり、と書きましたが原田版ではだれも汗ひとつかかず衣装も髪型も美しい。まるでルキノ・ヴィスコンティ監督の『ルートヴィヒ』『地獄に堕ちた勇者ども』のように、一つの帝国が滅びる姿を耽美的に描いています。またスタンリー・キューブリックが『博士の異常な愛情』で流した “ We’ll Meet Again ” をまさかのタイミングで流す、映画マニア原田眞人独特の世界観。
さらに、この映画の大きなテーマは「言葉」についてです。最初に、前作『駆込み女と駆出し男』とほぼ同じスタッフで続けて撮った映画と書きましたが、言いたいことにもおおいに共通点があるのです。
『駆込み女と駆出し男』でも山崎努演じる滝沢馬琴は、疑似家族的な父のような存在として、大泉洋演じる主人公を精神的に導きます。それは、人間関係の行き詰まりや、状況を打破し、世界を変える「言葉の力」についてです。

この映画も、また同じような構造があるのです。登場人物の衝突は、ひとえに「言葉」についてなのです。ポツダム宣言の解釈も、玉音放送の文言も、天皇が東条英機の意見を正す場面も、また侍従が反乱軍から逃れる場面も、すべて言葉を巡る攻防なのです。
人間社会は、じつは言葉でできている。戦争が始まるのも、終わるのも言葉によってである。それを理解している鈴木貫太郎が、ほかならぬ天皇に働きかけ、「言葉」によって戦争を終わらせ、事態を打開する。
それは、そもそもこの国における天皇の存在とは何か、について原田監督が考えを巡らせた結果ではないでしょうか。この国では、古来より天皇は権力や武力を掌握しているわけではありません。立憲君主のときであれ、象徴という存在としてであれ、言葉を発することによってのみ、その願いをやわらかに示し、国民に寄り添うものとしての天皇がいる。それを描き出したい、というのが原田監督の意図ではなかったか、そんな風にも見えるのです。
いまでも大災害がおこったときや、終戦記念の日、今上の天皇陛下の言葉に、国民がどのように耳を傾けているか、また象徴としての天皇がどのように国民の心に寄り添っているか、そのかたちが、そもそものこの国のありようであり、その再出発となる日を「言葉」の支点、力点、作用点によって描く、そのための昭和天皇の人物造形であり、本木雅弘の演技である、と僕は感じました。
興味がある方は、『万葉集』で「言霊の助くる国」としての日本がどのように詠まれているか、また終戦後の昭和天皇御製の和歌がどのようなものか、ぜひしらべてみてください。
この物語に対して、「国民は死んだり飢えたりしているのに、上層部はダラダラと言い争い判断が遅れてほんとうに愚かだったのだ! それを描く映画だ!」というテンプレ的な意見もあります。もちろん、彼らの判断がもうすこし早ければ、2度の原爆投下やソビエトの参戦、シベリア抑留などが避けられたのではないか、という思いは、日本人にとっていつまでも残る悔恨ですが、そもそも戦争で敗けて占領されたらどうなるか、誰にもわからないですし、その立場に立ってしまったら、ギリギリのところでそれぞれが職務を果たすしかないんです。
それぞれの立場でギリギリの選択をして生きるか死ぬかしなければならない。それは、良いとか悪いとかではなく、人間という生物集団の「状態」「構造」なんですね。
大事なことは、この映画や岡本版を両方観たり、いろんな本を読んでみて、自分で考えることです。戦争とは? 天皇とは? といった世の中の構造について、自分なりの歴史観、社会観を持つことなのです。その上で自分の立ち位置、主張、発する言葉を決めていく。人間の考えとは、できるだけ多くの意見を知り、できるだけ多くのエビデンスに支えられた方が豊かになるのではないでしょうか。
しかし・・・疲れました。めちゃくちゃ長くなってしまいました。『田中のいちばん長い映画評』になってしまいました。
次回こそ、えへらえへら笑えそうな映画を観に行きたいなあ、と願っています。車の中でイチャイチャしてる男女を空飛ぶ魚が襲うみたいなそんな映画を観るのです。カップルがイチャイチャし始めたら「死亡フラグwww」とか言うのです。ピラニアが空を飛ぶ? そのエビデンスはどこにあるんだ? 知らんがな。
