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共感じゃない。「血」が心揺さぶる感動体験——映画『国宝』レビュー

ちび山ゆり


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 最近めっきり涙もろい、ちび山です。
 9月末から始まったNHKの朝ドラ『ばけばけ』では、ハンバートハンバートによるオープニング曲『笑ったり転んだり』の歌詞と、彼らの歌声に涙ぐんでしまい、朝見ているどころではありません。
 「『お金を払ってでも読みたいことを、自分で書けばいい』と思える書く力の教室」の受講生仲間、たかみのみかたさんのnote記事、久しぶりに地元に行ったら街並みが変わっていたり、変わっていなかったりして郷愁に浸った、という話を読んだだけでもうるっときています。

 そんな私、映画『国宝』を観てまいりました。

(C)吉田修一/朝日新聞出版 (C)2025映画「国宝」製作委員会(出典:映画.com

 2025年6月6日公開、11月25日には観客動員1,231万人、興行収入173.7億円を達成!「踊る大捜査線 THE MOVIE 2」の記録(2003年、興行収入173.5億円)を22年ぶりに更新し、邦画実写映画歴代1位に日本経済新聞2025年11月25日記事 より)。
 李監督はこれまでもヒット映画を生み出しており、過去作品の興行収入ベスト3は、3位『フラガール』(2006年)14億円、2位『怒り』(2016年)16億円、1位『悪人』(2010年)20億円。(東洋経済オンライン「「吉沢亮や横浜流星の好演だけじゃない」映画『国宝』の超ヒットを導いた《李相日監督の“背景”》」より
 2025年の大晦日の時点でも全国402館映画情報アプリ「Filmarks」より)で上映されており、いまだ勢いが衰えません。

 映画公式サイトには「人生で観るべき、魂が震える映画体験を―—」の謳い文句が。

 これはすごい。めっきり涙もろい私は、ポケットティッシュ1袋では足りないほど号泣してしまうかもしれない。上映時間約3時間ということで、トイレの心配をしていましたが、涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃにならないかの心配もした方が良いかもしれません。

 これまでにないほど、色々と心して映画館に向かいました。

 まず、ストーリー。喜久雄(吉沢亮)、俊介(横浜流星)、半二郎(渡辺謙)の華やかさと、その華やかさに反比例するかのように付きまとう苦難、悲しみ。壮絶な役者人生が描かれています。

 映像、特に歌舞伎の演目のシーンは舞台側からの画角やアップも多く、ダイナミックで美しい。本作の李相日監督はインタビューで、「舞台芸術としての歌舞伎をしっかり捉える映像を撮ること。もう一つは、歌舞伎を演じている喜久雄や俊介の内面に入っていくような撮り方をするというアプローチ」をしたと語っています。(「fan’s voice Columnインタビュー 2025.06.13」より
 歌舞伎の役よりも、喜久雄、俊介自身の感情を前面に出したい箇所では、あえて二人に歌舞伎の役ではなく自身の感情を出してもらい、その顔のアップを撮っていったのは、そういう狙いかと合点がいきます。
 例えば、喜久雄がどさ回りから戻り歌舞伎の舞台に復活したときの「二人道成寺」での俊介のいたずらっぽく、久々の共演を楽しんでいる表情。喜久雄と俊介の最後の共演となった「曽根崎心中」での、俊介演じるお初の足に頬を寄せる喜久雄の何とも悲哀に満ちた表情
 音楽も素晴らしかった。歌舞伎の演目中にも観客に馴染みのある西洋由来の音楽をあえて重ねることで、歌舞伎初心者の私でも歌舞伎の抑揚に簡単に飲み込まれました。


 ストーリー、映像、音楽。どれをとってもすごい。
 のに、涙が全然出てこない
 ラスト近くなってくると段々、自分の感性が心配にすらなってきました。

 気づけばラストの喜久雄が国宝となり「鷺娘」を踊るシーン
 すると、みぞおち辺りに何やら衝撃が走りました。どぅくんとつきあげるような衝撃があり、じんわり涙が出てきたのです。
 なんだ、これは……。
 映画を観てこんな体験をしたのは初めてで、観終わった後はなんだかぼーっとして帰りました。

 一体、何に心を揺さぶられたのか。

 ふと思い出したのは、俊介が死の間際、喜久雄と共演した「曽根崎心中」の舞台袖での竹野(三浦貴大)のせりふ。「あんな風には、生きられねぇよな……」
 本作の中で一番共感した場面でした。

 ストーリー、映像、音楽はどれもすごいのですが、正直、喜久雄や俊介、その他の歌舞伎役者、花井家の人々になかなか共感することができていなかった。竹野のせりふでそのことに気づかされました。

 彼らの歌舞伎にかける生き様の迫力が最後の最後になって私に襲いかかり、涙が溢れたのでしょうか。
 いや、何かしら共感できないと、いくら涙もろい私とはいえ泣けない。

 原作を読み、2回目の鑑賞をして、やっと見えてきました。

 心を揺さぶった正体は、共感ではなく、歌舞伎役者として生きねばならぬ呪いのかかった喜久雄の「血」ではないかと。

 「呪い」というと、おどろおどろしいですが、それほど鬼気迫るものが喜久雄の人生には流れていました。
 映画の中盤、喜久雄は京都の小さな稲荷神社の前で、「日本一の歌舞伎役者にしてくれるなら、他には何もいらない」と悪魔と取引きをします。
 ただ、これよりもずっと前、喜久雄の父・権五郎(永瀬正敏)が殺された夜に、喜久雄の血には呪いがかかったと思うのです。
 父が銃で撃たれ殺されるのを目の前にした喜久雄。最初は恐怖、怒りなど感情が露わになった表情でしたが、権五郎が雪の上に倒れ赤い血が雪に広がっていく頃には、何の感情も持たない、何かを悟ったような表情に変わっています。

 「血」と言えば、喜久雄が半二郎の代役として「曽根崎心中」のお初を演じる際、楽屋で俊介に「俊ぼんの血ぃコップに入れてガブガブ飲みたいわ」いうシーンも印象的です。
 本作の予告では、喜久雄の「才能」と、代々受け継がれてきた歌舞伎の名門一家花井家の「血」の対比がされています。

 喜久雄が時に感情を無くしてまで歌舞伎役者を突き詰めることができるのは、彼の「血」に突き動かされているからと、喜久雄側も「血」で語ることができます。
 本作は喜久雄の人生を描いており、誰かの人生は、その人の「血」が導くストーリーとも言い換えられるのですから。

 そう思って『国宝』を観ていくと、李監督は喜久雄の人生、喜久雄の血が導くストーリーが際立たせる演出を徹底的にしています。

喜久雄をとにかく孤独にさせる

 権五郎亡き後、娘・綾乃が生まれるまで喜久雄と血がつながった人はいません。マツ(宮澤エマ)は存命ですが、彼女は育ての母。映画では、喜久雄が初めて、半二郎の妻 幸子(寺島しのぶ)に挨拶するとき、「生みの母の願い(堅気になることが)ですから」とは話しています。

 花井家に預けられ、俊介や半二郎、花井家の人々とのつながりは生まれますが、それは非情なまでにどんどんと崩れていく。
 喜久雄がお初を演じた後、俊介はよりによって喜久雄の幼馴染で恋仲だった春江(高畑充希)と、どこかに逃げてしまいます。
 俊介が家を出て8年経ち、半二郎から襲名の話を持ち出され、いよいよ本当に花井家の一員になれたかと思った矢先。襲名披露の舞台上で倒れた半二郎改め白虎が口にしたのは、「……俊ぼん、……俊ぼん、……俊ぼん」と俊介の名。

 白虎亡き後、歌舞伎界で干されてしまった喜久雄は彰子(森七菜)と、かつて俊介がしていたような、どさ周りに出ます。俊介は春江との間に子にも恵まれ親子3人で歌舞伎界に戻ってくるのに対し、喜久雄が歌舞伎界に戻ってくるときは一人。
 歌舞伎界から干されていた間に喜久雄に起きた出来事や、彰子との関係性は原作と大きく異なるところ。喜久雄に俊介と同じ道を歩ませることで、喜久雄が戻ってきたときの孤独を強調しているのです。

 原作では、喜久雄の子・綾乃とその母親、芸妓の藤駒(三上愛)の関係は続いていますし、実家立花組の頃から一緒の徳次、徳ちゃんが、ずっと喜久雄を支えてくれています。
 徳ちゃんはお調子者ですが、ほんと真っ直ぐないい奴で、原作を読んだらすっかりファンになってしまいました。でも映画での登場シーンは始めの15分ほど。徳ちゃんファンとしては悲しいですが、喜久雄をとにかく孤独にさせるためには致し方ありません。

観客に共感させない

 「花井家の人々に共感できなかった」と先ほども書きましたが、これも李監督の作戦だったようで。
 喜久雄と俊介が芸を磨いていくシーン。喜久雄が花井家に預けられて間もなくのところで、二人揃って半二郎からの厳しい稽古を受けたり、学校からの帰り道に二人で練習したりするシーンはありますが意外とあっさり。

 李監督が『フラガール』(2006年公開)で描いた芸(フラダンス)を磨いていく様子とはずいぶん異なります。

出典:映画.com

 『フラガール』の主人公の紀美子(蒼井優)は、幼馴染の早苗(徳永えり)、小百合(南海キャンディーズ・しずちゃん)、初子(池津祥子)たちと、ゼロからフラダンスの修行をしていく。ダンス経験もないので、フラダンスの先生 平山まどか(松雪泰子)の指導を見よう見真似するものの、最初は体が硬くてレッスン用のバーに足もまともにかけられないし、腰を落としたステップは、しこを踏んでいるようにしか見えません。
 メンバーも増え、踊りも上手くなってきた頃、紀美子と早苗にも別れが訪れます。
 二人の別れのシーンは泣いた覚えがあるなぁと思い、映画を観返してみました。早苗が自分の夢を紀美子に託すシーンから、まどか先生に早苗が「おれ、今まで生きてきた中で、一番楽しかった」と叫び、紀美子が早苗一家の乗った車に向かって手を振って別れるシーンまで。もう涙が止まらない。頑張っても報われないこともある。でも、一緒に頑張った仲間がいる心強さ。
 フラガールたちは、失敗したりぶつかり合ったりしながらも、「行くぞ、フラガール!」の掛け声で一致団結し、宣伝キャラバンの公演を徐々に成功させていきます。
 そんな人間臭さ全開で頑張る姿に、そんなに強いわけではなかったけれど、テニスサークルの団体戦に出ていた私は、当時も今も共感し涙してしまうのです。
 そういえば、『フラガール』での蒼井優としずちゃんの共演がきっかけで、後に蒼井優と山ちゃんが結婚するなんて、この当時は夢にも思わなかった。

 1回目の鑑賞では、喜久雄少年が花井家に引き取られてすぐ、「連獅子」を興奮気味で観ているのがどうもピンとこず。正月に歌舞伎の出し物をしていたとはいえ、やんちゃな高校生男子が伝統芸能の歌舞伎に夢中になるかね、と。
 ただこれも、喜久雄が頭で考えて惹かれているのではなく、喜久雄の「血」が歌舞伎に対して沸き立っていると解釈すれば納得がいきます。

 幸子、春江も「梨園の妻」として、凡人には分からない境地を生きています。
 特に春江がすごい。
 喜久雄が彰子と花井家を出ることになり、挨拶に来たとき、幸子は一瞬、育ての母として「あぁ、行ってしまうのね」と、少し寂しい表情を見せます。
 一方、春江は息子がご飯を食べているのに付きっきり。「今はさすがに、息子がスパゲッティうまく食べれるかどうかは、どうだっていいでしょうよ」と思いますが。
 『北の国から’84夏』での五郎(田中邦衛)のせりふ、「子どもがまだ食ってる途中でしょうが!」がよぎります。
 かつての恋人だからこそ、未練のなさを露骨に表現したのかもしれませんが、自分の夫・俊介の大切な相方でもあるのに、よくもまぁ、あんなそっけない態度でいられるものです。
 俊介の妻として、半弥という役者を支えると決めたからには、その邪魔になることには一切私情は挟まない「梨園の妻としての覚悟」の凄まじさを見せつけられました。

あえて分かりやすい伏線

 壮絶なストーリーではあるものの、喜久雄の「歌舞伎にかけた人生」を際立たせるため、伏線はあえて分かりやすく張られています。
 父・白虎が襲名披露の舞台上で倒れれば、俊介も舞台上で父と同じ病が原因で倒れ込む。
 喜久雄と俊介が最後に共演した演目も、原作での「隅田川」から「曽根崎心中」に変えることで伏線回収が分かりやすくなっています。二人が別れるきっかけになった演目を二人で演じた後、今度は永遠の別れが訪れる。また、お初が徳兵衛に一緒に死ぬ覚悟はあるかと問う縁側での名シーン。喜久雄が初めてお初を演じたとき、徳兵衛がお初の足をさする場面を印象づけておくことで、そのシーンと、俊介の壊死が始まっている右足を喜久雄がたまらなく切ない表情でさする場面を観客が結び付けやすくなっています。そこから観客はさらに二人のそれまでの歩みを思い起こし、自然と感動が深いものになっていくのです。

呪いを呼び戻す万菊との関わり

 本作で出演シーンがそれほど多くないのに、とにかくインパクトが強いのが当代一の女形 小野川万菊(田中泯)です。
 万菊は要所要所で、喜久雄を歌舞伎の世界にいざないます。
 喜久雄は実の父を殺された日に呪いにかかったと書きましたが、しばらくはその呪いは発動していません。純粋に歌舞伎が好きで、稽古が楽しくて楽しくてしょうがない。
 万菊は初対面でいきなり、喜久雄の「歌舞伎役者として生きねばならぬ呪いのかかった血」に目をつけます。楽屋で喜久雄を呼び止める手なんて、もう、魔術のようにしか見えません。

 俊介が家を出て喜久雄一人になってから、呪いがしっかりと発動していきます。
 京都での襲名披露のお練りでは、娘の綾乃が「お父ちゃん。お父ちゃん」と呼びながら駆け寄ってきても、一瞥もくれない。もう歌舞伎を磨くこと以外、見えていないのです。
 それが、白虎が舞台で倒れたところで、呪いは少し解けます。
 「……俊ぼん、……俊ぼん、……俊ぼん」と呼ぶ白虎に対して、小さな声で「すんまへん。すんまへん」と喜久雄はつぶやきます。その時の表情には、孤独になることへの恐怖心が表れていて、少し喜久雄を同じ人間として身近に感じることができました。

 ここで一緒に舞台上にいるのに、全く取り乱さないのが万菊。今度は目でじっとり喜久雄を見るのです。「こんなことで呪いから解放されるのかい?」とでも問うように。

 白虎が亡くなり歌舞伎界ですっかり干されてしまった喜久雄の血を沸き立たせたのも、万菊の一言。対面していたのは俊介ですが、明らかに廊下で盗み見ていた喜久雄に向けての言葉でもありました。
 「あなた歌舞伎が憎くて憎くて仕方ないんでしょ。でもそれでもいいの。それでもやるの。それでも舞台に立つのがあたしたち役者なんでしょうよ

 このせりふを聞いて、やっぱりある種の呪いなんだと確信しました。練習が辛くて嫌になるとかそんなレベルではないのです。憎くて憎くて仕方なくてもやるしかないなんて、感情や考えではなく、呪われた「血」が歌舞伎をせずにはいられなくさせているとしか思えません。

 どさ回りをしていた喜久雄を歌舞伎界に呼び戻すきっかけも万菊。万菊の招く手つきです。
 引退した万菊が身を寄せていたのは古びた旅館。その一室で横たわる万菊は、「ここにゃ美しいもんがひとつもないだろ。なんだかほっとすんのよ……、もういいんだよって、やっと誰かに言ってもらったみたいでさ」とつぶやきます。

 万菊も何かのきっかけで、歌舞伎を全うせずにはいられない呪いにかかったのでしょう。だからこそ人間国宝まで上り詰めることができた。死期が近づく中で、やっと美しくあることから解放されたと思えた。
 いやいや、万菊が喜久雄を招く手の所作は、喜久雄と万菊が初めて出会ったときと何一つ変わらず、美しい
 もうきっと、今生のうちに呪いが解けることはないのでしょう。

 万菊のことを「呪いを呼び戻す」とか悪魔のように言っていますが、彼は映画の中で散々孤独にさせられている喜久雄と、唯一距離感を変えずに接している人物でもあります。
 「心の支え」ではないけれど、呪われた血を喜久雄が受け入れるためには、必要不可欠な人物だったのです。

孤高ゆえの美しさ

 「呪われた血の通う歌舞伎役者」を違和感なく演じられる役者として、李監督は吉沢亮を選びました。
 李監督は吉沢亮との対談で、「この映画をやる上では、彼(吉沢亮)が必要。彼が演らないんだったら、この映画はない」とまで言っています。(「東宝MOVIEチャンネル 李相日監督×吉沢亮 対談」より
 そこまでして吉沢亮でなくてはならなかった理由。それは彼の「澄んだ湖のような美しさ」と「底、考えていることがしれない沼感」だったそう。(同対談より

 確かに、喜久雄の自分自身の感情はどこかに置いてきて、呪われたように芸に取組む表情を見事に表していました。

 李監督はインタビューで「歌舞伎の、特に女形の映画をつくってみたいという思いが生まれた大きなきっかけ」として、チェン・カイコー監督の『さらば、わが愛 覇王別姫』(1993年)をあげています。(「fan’s voice Columnインタビュー 2025.06.13」より

(C)1993 Tomson Films Co.,Ltd.(Hong Kong)(出典:映画.com

 中国の伝統芸能である京劇で女形を演じる程蝶衣(レスリー・チャン)と段小樓(チャン・フォンイー)。幼い頃から厳しい修行に耐え、スター役者になる二人。

 レスリー・チャン演じる蝶衣も孤高の美しさはあるのですが、どこか儚げな、愛に飢えているような印象、人間味がありました。
 むしろ蝶衣の子ども時代、小豆子の表情に喜久雄と共通するものを見ました。
 一度、劇団から脱走した小豆子は偶然、名優が演じる京劇を観ます。それに感動して結局、劇団に戻ることにしますが、劇団に戻ると、脱走した罰としていつも以上に激しい折檻を受けることに。その時の恐怖を超越し、京劇の役者として登りつめることを覚悟した表情には、呪われた「血」を背負うことを覚悟した喜久雄の美しさに共通したものがありました。

 喜久雄の孤高の美しさが最高潮に達するのは、もちろん人間国宝となった後、ラストの「鷺娘」を演じるシーン。
 李監督はインタビューで「国宝という権威的、物理的な大切さではなく、そこにたどり着いた人間にしか見えない、ほかのだれにも見えない風景をずっと追い、求め続けることこそがこの上なく大切で、孤高と言われる生き方や思いを貫いた人が、結果〝国宝″たらしめるのではないかということ」と語っています。(CREATIVE VILLAGE「映画「国宝」 監督 李相日―—歌舞伎役者ではなく、歌舞伎役者に身を賭した人間を描きたかった」より

 孤高を貫いた先の喜久雄の美しさは、迫力ある音楽と幻想的な雪景色で強調されていきます。

 そして、この美しさはエンドロールまで続く徹底ぶり。
 エンディング曲はKing Gnu井口理が歌唱参加する「Luminance」。
 エンドロールに画面が切り替わると、雪の中で白い息を吐いているかのような繊細な井口の吐息から曲が始まります。
 本作で音楽を担当した原摩利彦はインタビューで、「李さんは最初から主題歌のボーカルは井口さんに頼むつもりだったようです。女形の話なので井口さんのファルセットの声で歌ってほしいっていうという……さすが筋が通っているなと思いました」と語っています。(Sound&Recording「映画『国宝』のサウンドトラック制作秘話!〜壮絶な“合宿”を通して組み上げられた曲作りを振り返る」2025年7月7日配信より
 本当に、どこまでも計算尽くされていました。


 このように喜久雄の人生、喜久雄の血が導くストーリーが際立っていたことで、私は喜久雄の「血」に心を揺さぶられるという、これまでにない感動体験をしたのです。

 共感によって心を揺さぶられるのと、何が違うのか。
 どちらが優れた感動体験という話ではありません。
 つい共感できる要素が多い作品を好んで観てしまいます。その方が自分の気持ちの流れが分かって安心できるから。
 一方、「血」で心が揺さぶられるときは、考えたことや感じたことの結果としての感動ではないので、自分の感情が分からなくなったような感覚になります。それは怖くもある。
 吉沢亮は「役作りとは?」の問いに、「Don’t think! Feel」と答えています。(キネマ旬報2025年6月号
 李監督が「吉沢亮なくして、この映画はない」と考えたことが、非常に腑に落ちました。

 李監督は、インタビューで「『なんのためにもがきながらも生きているのか?』と考えたとき、『この一瞬があるから生きている』という瞬間をだれもが見つけたいと願っているはずだろうなと思うんです」と語っています。(CREATIVE VILLAGE「映画「国宝」 監督 李相日―—歌舞伎役者ではなく、歌舞伎役者に身を賭した人間を描きたかった」より
 李監督は「国宝になるほどの人の『血』はすごいんだ!」と見せつけるだけでなく、きちんとエンターテイメント作品として仕上げ、普段、自分の血筋なんて意識しない大衆を置いてけぼりにはしていません。

 「血」に突き動かされると人生はどう転がっていくのでしょうか。平々凡々な私には想像もつきません。
 私はこれまで考えても感じるままに動いても、「この一瞬があるから生きている」という瞬間が見つからなかった。でも、「血」に突き動かされ進んでみたら、もしかしたら「その一瞬」が見つかるかもしれない。これまで思いもしなかった人生の輝かせ方、そしてそれには覚悟が必要ということを気づかせてくれた国宝・喜久雄の血に、心が震えたのは間違いありません。

(終)

〈参考資料〉

  • ・『国宝 上 青春篇』(2021年、朝日新聞出版)
  • ・『国宝 下 花道篇』(2021年、朝日新聞出版)
  • ・映画『国宝』公式ホームページ
  • ・「日本経済新聞2025年11月25日記事」
  • ・東洋経済オンライン「「吉沢亮や横浜流星の好演だけじゃない」映画『国宝』の超ヒットを導いた《李相日監督の“背景”》」
  • ・東宝MOVIEチャンネル 李相日監督×吉沢亮 対談
  • ・fan’s voice Columnインタビュー 2025.06.13
  • ・CREATIVE VILLAGE「映画「国宝」 監督 李相日―歌舞伎役者ではなく、歌舞伎役者に身を賭した人間を描きたかった」
  • ・Sound&Recording「映画『国宝』のサウンドトラック制作秘話!〜壮絶な“合宿”を通して組み上げられた曲作りを振り返る」(2025年7月7日配信)
  • ・「キネマ旬報」2025年6月号
  • ・「シナリオ」2025年9月号


国宝
主演 吉沢亮
監督 李相日

国宝

国宝(上・下巻)
吉田修一|朝日文庫

#宣伝会議田中泰延クラス 『国宝』week!

本記事は、2025年に宣伝会議で開催したライティング講座【「お金を払ってでも読みたいことを、自分で書けばいい」と思える書く力の教室】の最終課題「映画『国宝』のレビュー記事」を、「街角のクリエイティブ」掲載にあたって編集したものです。「#宣伝会議田中泰延クラス 『国宝』week!」と題して、これから8名の受講生の記事を1日1名ずつ順番に公開していきます。

▶︎ #宣伝会議田中泰延クラス 受講生による記事一覧はこちら

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    ~書く人、描く人、トロる人~ まちの将来像を考えたり、地元の人が参加するイベントやワークショップを運営したりする仕事をしてきた。褒められそうな方ばかり選んできたため、自分がやりたいことを認識するのが苦手で絶賛克服中。日々の“もやもや”をトロ(吐露)る人の話を、じっくり聞くサービスを計画中。