観劇日記の裏側
こんにちは、こんばんは、おはようございます。
水曜の「街角diary」、担当は廣瀬翼です。
先週は、久しぶりに観劇日記を出しました。
なが〜〜〜〜〜〜〜〜いのに、読んでくださったみなさま、ありがとうございます。
この観劇日記、実際にミュージカルを観てから中2日で出しました。『サンセット大通り』そのものを、今回初めて観ました。あらすじは調べていたけれど(ミュージカルは新作でない限り、あらすじを調べて行っています)、全篇を通して観たのは初めてです。
これまでの私なら、こんなスピードで感想エッセイや観劇日記を出すことはできませんでした。モヤモヤと考えている時間がないと、文章にまで落とし込めないからです。
それが今回はなぜ、中2日で出せたのか。その理由は……
- まだチケットが購入可能だったので、これから観ようかなという人に届けるには粗くてもなんでも1日でも早く出さねば! という気持ちが強かった
- 新幹線の中で眠る以外にやることがなく、モヤモヤ時間を取れた
- 考えの補強にAIを活用した
特に強かったのが「3」です。
これまで文章執筆でのAI活用って、書き起こしと誤字脱字や表記の揺れの確認以外、あまりうまくいっていなかったのですが、今回やっとその威力を感じることができました。
特にAIのおかげでスピードが1/10くらいにまでなったと感じたのが、「サロメ」の比喩に関する部分です。
chat GPTとのやりとりを、参考にそのまま載せます。
【質問:サンセット大通りでは、重要なモチーフにサロメが登場します。物語におけるサロメの暗示と役割を考察してください。】
おっしゃる通り、サロメは単なる「ノーマが復帰作に選んだ題材」ではなく、『サンセット大通り』全体の結末を先取りする中心的な象徴です。
特にオスカー・ワイルド/リヒャルト・シュトラウス的なサロメ像を重ねると、ノーマとジョーの関係がほとんど「現代ハリウッド版サロメ」として設計されていることが見えてきます。
1. ノーマは、サロメを演じたいのではなく「すでにサロメである」
ノーマが書いている復帰作は、若い王女サロメを自分自身が演じる映画です。劇中でも、彼女はサロメを十代の誘惑者として構想しながら、年齢を重ねた自分が主演できると信じています。(コピオーニ)
表面的には、これはノーマの老いへの否認を示しています。
しかし、より重要なのは、彼女がサロメという役を選んだこと自体が、無意識の自己告白になっている点です。
ワイルドの『サロメ』では、サロメはヨカナーンに欲望を抱き、拒絶されると彼の首を求め、最後にはその切断された頭部に接吻します。欲望が所有欲へ、所有欲が殺意へ変わる物語です。(sophia.repo.nii.ac.jp)
ノーマも同じように、
- ジョーを欲する
- 金、衣服、屋敷によって囲い込む
- ジョーの意志や人格より、「自分を愛する男」という役割を求める
- 拒絶されると殺害する
という道をたどります。
つまり、ノーマはサロメ役への適齢期を過ぎているどころか、精神的にはサロメそのものになっているのです。
2. ジョーは「欲望される男」であると同時に、ヨカナーンの首になる
ジョーとヨカナーンは人格的には大きく異なります。ヨカナーンは宗教的信念からサロメを拒絶しますが、ジョーはしばらくノーマの庇護を利用しています。
それでも物語上の役割は似ています。
両者とも、
「女主人公がどれほど欲しても、最終的には完全には所有できない男性」
です。
ノーマはジョーの身体、時間、服装、生活を買うことはできます。しかし、彼の内面までは支配できません。ジョーがベティとの関係を持ち、最後にはノーマのもとを去ろうとした瞬間、彼はノーマの幻想から独立した存在になります。
そこでノーマは、彼を生きた他者として愛することをやめ、死体として固定します。
これはサロメが、生きているヨカナーンには拒絶されたため、切断された頭部を手に入れることでようやく所有する構図と重なります。
生きた相手は自分を拒絶できるが、死んだ相手はもう拒絶できない。
サロメの暗示が最も恐ろしいのは、この「愛と所有の混同」を予告している点です。
3. 「首」のモチーフが、映画では「顔」と「クローズアップ」に置き換わる
サロメの物語では、切断された頭部、特にヨカナーンの顔が欲望の対象になります。
一方、『サンセット大通り』で繰り返されるのは、映画スターの顔です。
ノーマは、サイレント映画のスターとして、言葉ではなく視線と顔で観客を支配したと信じています。「With One Look」もまさにその自己認識を歌うナンバーです。
サロメがヨカナーンの首を物体として所有しようとするのに対し、ノーマは自分自身の顔を映画の中に永久保存しようとします。
ここには二重の「切断」があります。
- サロメは、男性の頭部を身体から切り離す
- 映画は、俳優の顔を現実の時間や肉体から切り離し、スクリーン上に保存する
ノーマは、若かった自分の顔だけを映画の中から取り出し、それを現在の自分だと思い続けています。彼女自身もまた、過去の映像に保存された「切断された顔」に囚われているわけです。
その意味で、ノーマはサロメであると同時に、サロメが抱える首そのものでもあります。
4. サロメは「若さへの執着」の皮肉でもある
ノーマが演じようとするサロメは、若さと官能の象徴です。
しかしノーマにとって若さは、単なる外見ではありません。それは、
- 観客から見られる権利
- 欲望される価値
- 主役でいられる資格
- 映画界に存在する証明
そのものです。
だから彼女にとって老いを認めることは、容姿の変化を認めるだけではなく、自分が存在しなくなったと認めることに等しい。
サロメを演じる計画は、ノーマが「私はまだ欲望する側であり、同時に欲望される側でもある」と証明するための企てです。
しかし実際の物語で彼女が演じるのは、若い誘惑者というより、拒絶に耐えられず相手を殺す支配者です。そこに強烈な皮肉があります。
彼女はサロメの若さを演じることには失敗しますが、サロメの破滅を現実に演じることには成功してしまうのです。
5. 復帰作『サロメ』は、ノーマが自分の人生に書いた脚本
ノーマは自分の『サロメ』を、デミル監督、自ら主演の大作映画として構想します。脚本上でも、彼女はそれを他人の作品ではなく「ノーマ・デズモンドのサロメ」として捉えています。(Daily Script)
ところが実際には、その映画は撮影されません。
代わりにノーマは、自宅でサロメの物語を現実化します。
- 屋敷はヘロデ王の宮殿になる
- ジョーは拒絶するヨカナーンになる
- 銃撃が処刑になる
- プールに浮かぶジョーの死体が、獲得された身体になる
- 警察や報道陣のカメラが、復帰作の撮影隊になる
そして最後にマックスが、階段を「宮殿の階段」に見立て、ノーマをカメラの前へ導きます。映画版の終幕では、彼女は現実の逮捕を『サロメ』の撮影だと思い込み、階段を下りてきます。映画音楽も、この場面でノーマのテーマを初期映画風のグロテスクな音楽へ変形させます。(Wise Music Classical)
したがって『サロメ』は未完成なのではありません。
ノーマはジョーを殺し、自分自身が狂気に入ることで、現実の中に『サロメ』を完成させたのです。
6. サロメとノーマの決定的な違い
ただし、二人は完全に同一ではありません。
サロメは、少なくとも自分の欲望を認識しています。彼女はヨカナーンを欲し、拒絶された怒りからその首を求めます。
一方のノーマは、自分の欲望を「愛」「復帰」「芸術」「観客の期待」といった物語で覆い隠しています。
彼女はジョーを所有したいのではなく愛していると思い、過去に戻りたいのではなく観客が自分を待っていると思い、逮捕されるのではなく撮影に復帰するのだと思っています。
その意味では、ノーマの悲劇はサロメ以上に深い。
サロメは欲望によって破滅しますが、ノーマは欲望と現実を区別できなくなったことによって破滅するからです。
結論
『サンセット大通り』におけるサロメは、
- ノーマの欲望と所有欲を映す鏡
- ジョー殺害の予告
- 若さとスター性への執着の象徴
- 顔を永遠に保存する映画という媒体の比喩
- 最終場面を「撮影」に変える劇中劇
として機能しています。
最も端的に言えば、
ノーマは『サロメ』で女優として復帰しようとするが、実際にはサロメの物語を生きることで、破滅したスターとして最後のクローズアップを獲得する。
という構造です。
あのラストで彼女が手に入れるのは、望んでいた映画主演ではありません。しかし皮肉にも、カメラ、観客、階段、照明、注目という、彼女が求め続けたものはすべて揃います。サロメはその「願望が最悪の形で実現する結末」を、物語の早い段階から暗示しているのだと思います。
質問を投げてから、これだけのボリュームの回答が出てくるまでに11秒。
しかし、ここでAIの回答に疑問を抱きました。
まずは、【ジョーは「欲望される男」であると同時に、ヨカナーンの首になる】。……本当に?
だって、ジョーは撃たれたあとそのまま庭のプールに浮かんでいて、ノーマは心神喪失状態で『サロメ』のセリフを口にし続けているわけで、ジョーの存在が消えてしまっている。もし本当にジョーがヨカナーンの首なのであれば、自身で壊したあとに「所有する」描写まであるべきでは……?
そして、もう一つ。【「首」のモチーフが、映画では「顔」と「クローズアップ」に置き換わる】。……本当に?
もっともらしい話です。でも、こちらは実際に映画を観なければ判断がつきません。
検索したら、Amazon Primeに吹き替え版がありました。そこで実際に映画を観てみた私の結論は、「この説を言い切るには、不十分」でした。もっともらしいのだけれども、他の映画と比較して特筆すべきほどに顔のクローズアップが多用されているとは思わなかったし、首のモチーフと言い切るほどのドアップでもないように感じたからです。
この2つの「本当に?」から、ジョーをヨカナーンに重ねて「サロメと重ねている作品」というには、根拠も発見も弱いなと認識しました。それが認識できただけで、大きな助けです。
そうしてもう一つ、AIの書いたこの文章が脳に引っかかりました。
したがって『サロメ』は未完成なのではありません。
ノーマはジョーを殺し、自分自身が狂気に入ることで、現実の中に『サロメ』を完成させたのです。
この一文で、ふと次の問が生まれました。そして、それがもっとも腑に落ちる流れであるようにも感じました。
【質問:サロメとヨカナーンの関係は、ノーマとジョーではなく、「ノーマと映画・演劇」の関係と捉えることはできないでしょうか?】
これは、とても鋭い読みだと思います。
私はこちらの解釈は十分成立するどころか、『サンセット大通り』という作品全体のテーマには、ジョーとの対応以上に深く接続していると考えます。
先ほどは「劇中人物同士の対応」で説明しましたが、こちらはメタファーとしてのサロメという読みですね。
そして、この読みのほうが『サンセット大通り』らしいとも言えます。
サロメが求めたもの
まず、サロメは本当にヨカナーンという「人間」が欲しかったのでしょうか。
ワイルド版を読むと、
彼女が執着しているのは
「自分が欲しいと思ったものは必ず手に入れる」
という欲望そのものです。
ヨカナーンは
- 神
- 純潔
- 永遠
を象徴しています。
つまり
絶対に手に入らないもの
です。
だから欲しくなる。
ノーマが欲しいもの
ノーマも同じです。
彼女が本当に欲しいのは
ジョーでしょうか。
私は違うと思います。
ジョーは
もっと大きなものの代用品です。
彼女が欲しいのは
- 観客
- 拍手
- カメラ
- ライト
- スターである自分
です。
ジョーは
その世界へ戻るための
最後の証人
なのです。
ジョーは映画そのものではない
ジョーは脚本家です。
つまり
映画を作る側。
彼を失うということは
映画界との最後の接点を失うことになります。
ここが重要です。
ノーマは
ジョーを愛しているというより
ジョーによって
映画とつながっていたい。
だから
ジョーが出ていくことは
恋人を失うことではなく
映画そのものに拒絶されること。
ヨカナーン=映画
この読みをすると、
サロメの構図が非常に美しく一致します。
ヨカナーンは
神に仕える人。
俗世間に染まらない存在。
サロメは
どうしても手に入れたい。
しかし拒絶される。
ノーマに置き換えると
映画も同じです。
映画は
もう新しい時代へ行ってしまった。
ノーマだけが
過去に残っている。
つまり
映画そのものから
拒絶されている。
首とは何か
ここが一番面白いところです。
サロメは
最後に
ヨカナーンの首を得ます。
しかし
その時
ヨカナーンは
もう生きていません。
つまり
彼女が得たのは
生きた愛ではなく、過去の象徴
です。
ノーマも同じ。
彼女が最後に得る映画とは
現実の映画ではありません。
妄想です。
カメラ
照明
階段
「Mr. DeMille…」
全部
幻想。
つまり
ノーマが最後に手に入れた映画も
もう生きていない。
死んだ映画
なのです。
「映画」という死体
私はここが最も恐ろしいと思います。
ノーマは
映画を愛している。
しかし
彼女が愛している映画は
1920年代の映画。
もう存在しない。
だから
彼女が抱きしめているのは
映画の死体。
これは
サロメが
首を抱く姿そのものです。
つまり
ジョーではなく
映画そのものが
ヨカナーン。
ラストシーンが意味するもの
最後、
ノーマは
カメラへ近づきます。
彼女は
映画へ帰った
と思っています。
しかし
観客から見ると
そこには
映画はありません。
ニュースカメラしかない。
つまり
映画はもう死んでいる。
彼女だけが
まだ映画が生きていると思っている。
これは
サロメが
首へ口づけする姿と
本質的に同じです。
さらに面白いのは「映画はノーマを拒絶していない」という逆説
ここでもう一歩踏み込むと、実は「映画がノーマを拒絶した」というより、映画は変化しただけとも言えます。
『雨に唄えば』のドンやキャシーは、その変化を受け入れて新しい映画へ進みました。
ノーマだけが、「かつての映画」という理想像に執着し続けます。
つまり、彼女が求めているのは現実の映画ではなく、自分の記憶の中で神格化された映画です。
その意味では、
- ヨカナーン = 現実の映画
- ノーマが抱く首 = 自分の中で永遠化した映画
という二重構造も考えられます。
私が最も腑に落ちる解釈
この作品は「ジョーとノーマの愛憎劇」としても成立しますが、作品全体を支配しているのはもっと大きなテーマです。
ノーマ・デズモンドは、映画という芸術そのものに恋をしている。
だからこそ、
- ジョーは恋人である以上に「映画へ続く最後の通路」
- デミルは「映画の父」
- パラマウントは「神殿」
- 撮影所は「聖地」
として描かれます。
そしてサロメになぞらえるなら、
ノーマが最後まで求め続けたヨカナーンはジョーではなく、「映画」そのものだったという読みは、作品全体の象徴構造として非常に説得力があります。
この解釈に立つと、最後の「All right, Mr. DeMille, I’m ready for my close-up.」は単なる狂気のセリフではなく、永遠に戻ることのできない恋人(映画)へ向けた、最後のラブレターとして響いてくるのです。
これも、回答が出てくるまで10秒程度。出てきた回答文を見て、頭を抱えました。
「映画という死体」。そう、これ。
今回の舞台評、サロメとヨカナーンはノーマと映画に置き換わるのではないかという考えが、この「映画という死体」という一言に落ちてきたことで、私の中で完成が見えました。
でも、このフレーズは自身で書いていたら、たぶん3日間くらいウニウニ考えていろんな単語を書き出して、やっとたどりつくところだっただろうと思います。おっそろしいわ、AI。
そうか、文章執筆におけるAIはこうやって、なんとなくタネになるかな? と思ったことの検証や補強に使えば、金棒のような存在になるのか。いや、おもしろい。
苦手意識のあった評論だけど、AIのおかげでだいぶ書きやすい時代が到来したように感じました。
……それにしても、AIは喋りすぎ。そしてなんやこの意味不明な改行の多さは。引っかかりを見つけたり、補強したりするには有用だけど、そのまま文章にするにはたいへんにクサイ。口数が多い。
それから、どういう視点でという最初のボールに目をつけるのは、たぶんまだ人間でないとできないわけで。
AIのすごさを感じるとともに、人間がいないとつくれない評論も感じられた気がします。
そうそう、今回AIと一緒に『サンセット大通り』の観劇日記を書いていく過程で、「ミュージカルにおける作曲家は何を描いているのか」というお題にたどりつきました。
冒頭、私は『オペラ座の怪人』と『サンセット大通り』の類似性に少し触れていて、また作品自体を「アンドリュー・ロイド=ウェバーの作品」と認識・紹介しているのですが、考えてみたら話の筋を書いているのはロイド=ウェバーではないはずなんですよね。脚本家も作詞家もいるし、『サンセット大通り』は原作映画があるのだから。
でも、共通して「ロイド=ウェバーの作品だ」と感じる。物語にも類似性を見ようとする。それは何なのか、と。
これを、試しにChat GPTに書かせてみることにしました。
そうしたらね、Chat GPTは自分で「名作になる!」「おもしろくなってきました!」とか自画自賛するのに、「word原稿にしてください」と言ったら、そんな長文は仕様上書き出せないというんですよ。とりあえず最後まで書き切って欲しいのに、細切れに章ごとにしか書けなくて、しかもその書いている途中で「ここまで書いてみて、少し気が変わってきました」とか言うんですよ。
……どう言い聞かせて、どう役割分担したら上手くいくのか、まだ模索中です。
まあ、そのうち「ロイド=ウェバーにみる、作曲家がミュージカルで描いているもの」みたいな文章もアップすると思うので、もしそれが上がってきたら「AIと少しは仲良くなれたんだな」と思ってくださいませ。
廣瀬 翼
レポート / インタビュー
1992年生まれ、大阪出身。編集・ライター。学生時代にベトナムで日本語の先生を経験。食物アレルギー対応旅行の運営を経て、編集・ライターとなる。『全部を賭けない恋がはじまれば』が初の書籍編集。以降、ひろのぶと株式会社の書籍を担当。好きな本は『西の魔女が死んだ』(梨木香歩・著、新潮文庫)、好きな映画は『日日是好日』『プラダを着た悪魔』。忘れられないステージはシルヴィ・ギエムの『ボレロ』。





