「楽屋落ち」ならぬ「楽屋飛び」。
映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
広告代理店でコピーライター/CMプランナーをしている僕が、映画や音楽、本などのエンタテインメントを紹介するという田中泰延のエンタメ新党。
連載も8回になりますが、紹介するのはその時点で公開中の映画ばっかりです。米国アカデミー賞®の季節だったということと、あと、大事な点として、いま劇場公開されている映画なら、読んでくださる方とほぼイーブンな条件で観ることができる、という理由があります。
DVDやブルーレイで映画を観る場合を考えてみましょう。ディスカウントストアで買った22型のテレビで6畳間で観るDVDと、僕みたいな、六本木ヒルズの170平米のリビングで、シルクのガウンを身にまとい、ロッキングチェアーに揺られながら、壁に掛けたヘラジカの首の剥製を暖炉の炎が優しく照らし、左手にブランデーグラス、右手で美女の髪を撫でつつ85インチのモニターにサラウンドシステムで観るブルーレイでは、同じ映画でもぜんぜん違う体験になってしまいます。
僕みたいな、と書きましたが「僕、見たいな」と思っただけです。ちなみに六本木ヒルズはTSUTAYAから先へ入ったことがありません。

ここから向こうのヒルズのレジデンス棟は、いったいどんな酒池肉林の世界なんでしょうか。全部屋の壁にヘラジカの首があると思うと羨ましいし、動物愛護団体に電話だ。
「かならず自腹で払い、いいたいことを言う」がこの映画紹介のルールなんですが、どちらかというと、観てから読んだ方が話のタネになるコラムです。「ネタバレすぎて観なくてよくなったから1,800円トクしたわ」というご意見もたくさん頂戴しておりますが、連載8回目、今回はだいじょうぶです。安心してください。なぜなら本年度米国アカデミー賞®で作品賞をはじめ監督賞、脚本賞、撮影賞と主要4部門を独占したこの映画なら、たくさんの方がご覧になっているはずですから。
そんな、観るのが遅きに失した映画は、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』。予告篇をどうぞ。
出典:YouTube
監督は、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ。

『ビューティフル』や、その前は菊地凛子が出演した『バベル』を撮った人ですね。けっこう暗い映画を作る人なんですが、今回はコメディなんですよ。かなりブラックですけど。ブラックといえば高校のとき喫茶店で「ブラックコーヒー、ミルクと砂糖多め」と毎回カッコよくオーダーしていた西村君を思い出します。ブラックというのはキリマンジャロとかモカみたいな豆の種類じゃないと教えてあげればよかったのですが、面白いから誰も指摘しませんでした。西村、元気か。あれから30年、いいかげん気がついたか。
しかし「イニャリトゥ監督」って言いにくいですよね。ある調査によると、イニャリトゥという名前を聞いた時、ほぼ全員が想起する人名は「ハチャトゥリャン」だそうです。

そして、ハチャトゥリャンといえば『剣の舞』を思い出す人がほとんどで、さらに『剣の舞』を聴いて小学校の運動会を想起する人は100%なのです。
出典:YouTube
つまり、この方程式から導かれる解は、映画『バードマン』のことを考えると、最終的に必ず人間は小学校の運動会のことを考える、ということなのです。世の中、ほんとうになにが起こるかわかりません。
運動会は当然として、だいたい、われわれがバードマンといわれたら思い出すのはあいつに決まっておろう。

そうです。普通の子供たちや猿を「パーマン」に任命する、宇宙からの使者です。ちなみにこのバードマンは、パーマンたちが正体をバラすと「動物に変えてしまう」という罰を用意しているのですが、パーマン2号は最初から猿です。これ以上どうするつもりなんでしょうか。

さて、いろんな権利関係が難しい画像を使用して編集部を困らせるのはこのくらいにしてこの映画の話をしましょう。本作品、『バードマン』というタイトルではありますが、特撮ヒーローものではありません。

たしかに “ バードマン ” は出てきますが、それはこの映画の主人公リーガンが、かつて映画で演じた特撮ヒーローの名前なのです。リーガンはその後、映画界で目立った活躍はなく、妻とは離婚、娘は薬物中毒と落ちぶれ、ブロードウェイでの演劇で主演して起死回生をはかろうとします。
リーガン役のマイケル・キートンは、かつてティム・バートン監督の『バットマン』で一世を風靡した俳優。

バットマンを演じたその後のキートンが、バードマンを演じたその後のリーガンという役を演じる、これは完全に重ね合わせの話法ですね。

主要キャストは、ぜんぶ「重ね合わせ」の話法です。クセ者すぎる舞台役者として、物語をかき回す役にはエドワード・ノートン。

エドワード・ノートンは、かつて『インクレディブル・ハルク』で超人ハルクを演じましたが、脚本のことで揉めて続編からは降板したことがある俳優です。

薬物依存症のリハビリ中ながら、父親リーガンの付き人をする娘を演じるエマ・ストーンは『アメイジング・スパイダーマン』シリーズでヒロインでしたが、シリーズが打ち切りになってしまった女優。

エマ・ストーンはこの映画で、めっちゃ可愛いです。めっちゃ可愛いです。もう一回書いてもいいくらいです。
劇中劇の主演女優を演じるのは、ナオミ・ワッツ。デビッド・リンチ監督の『マルホランド・ドライブ』やピーター・ジャクソン監督の『キング・コング』で売れない女優を演じていた人で、実際にもそれまで売れない女優としてのキャリアが長かった彼女は、今回もお得意の売れない女優役です。

このように、映画は、出演者それぞれのキャリアを重ね合わせ、なおかつその中で劇中劇があるという、入れ子構造になっています。
さらにこの映画では主人公が芝居の相手役を探すのに
「マイケル・ファスベンダーは空いてるか?」
「X-MENの撮影中だ」
「ジェレミー・レナーは?」
「アベンジャーズで忙しい」
「どいつもこいつもヒーロー映画か」
という会話があったり、テレビで『アイアンマン』を見かけて
「ロバート・ダウニーJr.の野郎、ブリキの服で一発当てやがって」
というような今のアメコミヒーロー特撮映画がはびこるハリウッドへの皮肉が満載です。つまり現実を取り込んだメタ視点で語られる、ようは「楽屋落ち」です。楽屋落ちな上に、映画自体がほとんど楽屋の映像でできています。
メタ視点といえば、僕の腹回りも中年になってメタ的に語られることが多くなりました。現実と向き合うのがいやになる体重ですが、人生は続きます。
物語は、劇中劇の本番に向けて、トラブルだらけの3日間ほどの出来事を描きます。
さて、この映画。なんといってもアカデミー賞®作品賞ですから、たくさんの人が観たと思うんですが、賛否両論です。よく見かけたのが、ネットの映画評で
つまんねー。 ★
意味わからない。最悪。 ★
みたいな感じで★1つで片付ける批評です。
じつは僕もちょっとよくわからなくて、2回観ました。1,800円の2回、3,600円の自腹プラス、パンフレットも買いました。820円。これで4,420円。よくわからなかったからパンフレットを買ったのに、そこに作家・古川日出男さんのレビューが載っていて「あまりにも深く考えさせる映画なので感想は言いがたい。」って書いてありました。820円の立場は。
でも、これがアカデミー賞®作品賞なんですよ。俳優や、脚本家、監督、プロデューサー、映画会社役員などからなる投票でナンバーワンに選ばれたのです。それには理由があるのです。それだけの人たちがこの映画に見つけたのは、メタ視点のシニカルな自己批判、革新的な撮影技術、映像的な象徴・比喩・寓意性、現代社会の問題点、そして映画人による映画愛、などだと思います。ほら、こうして文字にすると分かりやすすぎるでしょ。そしてそれは、わざと見つけやすくちりばめてあるのです。
この映画、そのようにちりばめられすぎの映画なので、いつものようにストーリーを追って場面場面をチェックしながら書いていくと、大変なことになります。2回観てめちゃくちゃ細かくメモがあるので、なおさらです。なので、箇条書きでいきます。ただし珍しく、ラストに関してのネタバレ含む解釈はやめておきます。
● 技巧的には、驚異の2時間ワンカットの(ように見える)映像でできている。ずーっとカメラが追っていく(ように見える)。撮影のエマニュエル・ルベツキは『ゼロ・グラビティ』で発揮した技術をさらに進化させ、当然のアカデミー撮影賞。個人的には、素直にカット割ったほうがいいんじゃね? と思いますけど、「演劇」を題材にしていることと通じるあたりが投票につながったんでしょね。
● 舞台や映画の本番や、書き物の締め切りに向かって主人公がどんどんおいつめられて頭がおかしくなっていく、現実と虚構の区別がつかなくなっていく、という映画は昔から多い。ミュージカル映画『オール・ザット・ジャズ』、ジョン・カサヴェテス監督の『オープニング・ナイト』、言わずと知れた『ブラック・スワン』キューブリックの『シャイニング』など『シャイニング』のホテルの床の模様が、『バードマン』の床の模様と同じなことは多くの人が指摘。


● 音楽は、映画の前半では基本的にドラムだけでできている。パット・メセニー・グループのアントニオ・サンチェスのドラムは、主人公の内面や、物語の変化を的確に鳴らす。前回評した『セッション』のドラムがまるで音楽になってないのと対称的で、これこそ音楽の力。
● 映画の冒頭にレイモンド・カーヴァーの墓石に刻まれている詩
『おしまいの断片』が掲げられる。映画のテーマを分かりやすすぎるほどに伝える。
「この人生で望みを果たせたのか?」
「果たせたとも」
「君は何を望んだのだ?」
「“愛される者” と呼ばれ、愛されてると感じること」
● 劇中劇もレイモンド・カーヴァーの小説、『愛について語るときにわれわれの語ること』を脚色したもの。「愛されなければこの世にいないのと同じ」というテーマを扱っている。ただし誰がみてもレイモンド・カーヴァーっぽくない仕上がりの芝居になってしまっていて、「特撮ヒーローくずれの昔の映画スターに演劇ができるわけない」と皆がしつこく言う構造になっている。
● 『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』という長いタイトルは勝手につけた邦題ではなく、 “ Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance) ” という原題の翻訳である。ただし、 “ Virtue ” は「奇跡」ではなく「美徳」であり、「奇跡」という部分はちょっと意図的な誤訳で、映画をみるとやはり「美徳」がふさわしいと思う。
● 話は、かつての “ バードマン ” としての自分と忘れられかけた自分、再起をかけた芝居の評価、妻や娘との関係、そしてTwitterやフェースブックの時代、と徹底的に「自己承認」をめぐって語られる。
それは『フォックスキャッチャー』でも『セッション』でも語られたテーマ。アメリカ人の、自己実現という概念における承認欲求の大きさは我々日本人の比ではない、と思う。
● SNSでの拡散・炎上が、本人にとっては不本意だが話題作りに役立ってしまう皮肉。今回、現実でもアカデミー主演男優賞を逃したマイケル・キートンが、用意していたスピーチ原稿をポケットにしまう映像がSNSで話題になってしまったメタ的展開。リーガンの娘が力説するSNSについての意見は辛辣。

● “ バードマン ” は主人公のもう一人の自分として常につきまとっている。過去の成功体験が、自分を追いつめる強迫観念であり、誇大妄想的な自己肯定でもある。劇中、リーガンはいくつかの“超能力”らしきものを発揮するが、手を使わずに物を動かしたり、投げたり・・・別に手を使ってもできることである。

● この映画は、どこまでが現実で、どこからが幻想なのかとてもわかりにくくできていて、ワンカットで撮る手法によりなおさらリアルと妄想の境目がなく、わざとわけわからなくすることに一役かっている。
● この映画、主人公はここで死んでて、ここから先は夢と願望の世界かな? と思わせるシーンが多すぎる。具体的には、毒クラゲのインサートカット、屋上に立つカット、バードマンになって飛翔するカット、舞台上でのラストのカット、そして映画全体のラストのカット。
● 幻想といえば、主人公の妻がところどころ脈絡もなく出てくるが、主人公以外と喋る形跡がない。これは、注意して観るとデヴィッド・フィンチャー監督の『ゴーン・ガール』の主人公の “ 双子の妹 ” と同じ扱い。頭の中の人。

● 芝居に、観客として来るわけなさそうなマーチン・スコセッシ監督(本物)が来ていて、好意的なことを言う。これも現実的でない感じを加味している。
● 怖い批評家がラスト、あのような、無知がもたらす予期せぬ「事故」によって絶賛の記事を書くのもなんだか筋が通ってない。主人公の願望としか思えない。上で出たスコセッシの『タクシー・ドライバー』の最後のロバート・デ・ニーロがヒーローになったという妄想っぽい新聞記事にも似た、映画史的にアカデミー会員にウケるポイント。
● 娘が最初に楽屋にイヤイヤ買ってくる花はバラ。花言葉は【死ぬほど恋焦がれています】、そして念願叶って最後に娘が持ってくる花はライラック。花言葉は【思い出、愛の芽生え】……わかりやすすぎる象徴のちりばめ。現実か、幻想か、リーガンは妻と和解し、娘に感謝し、恋人に謝罪する。自己承認そのものではなく、その過程でいろいろなことに気付き、尊大なバードマンとは決別していく、その描写は、わりと丁寧。
● ドラムだけの前半から、映画の後半ではメロディックなクラシック音楽が響くようになってくる変化は見事。とくにリュッケルトの詩にマーラーが曲をつけた『私はこの世に忘れられて』は冒頭のレイモンド・カーヴァーの詩と同様、くどいくらいにこの映画のテーマとストーリーを歌ってくれる。
私はこの世に忘れられた
この世で無駄な時を過ごし 誰も私を気にせず 長い年月がたち
きっと思われているだろう 私は死んだと!
私には関係ない たとえ死んだと思われようと
否定することもできない 死んでいるのも同然なのだから
私は喧噪から逃れ 静かな世界で安らぎ たったひとりでいるのだ
私だけの世界に 私だけの愛に 私だけの歌に
出典:YouTube
● 以上のごとく、ちりばめられまくられ、引用されまくったシンボルにまったく気付かないか、ウンザリするか、いや、あっぱれと言うかがこの映画を観るときの分かれ目になる。
● でも、ラスト! ラストは、ちょっといい! いいぞ! ブラックコメディで、セルフパロディで、楽屋落ちの映画だけど、最後は楽屋落ちじゃなくて、楽屋飛びだ! この力技こそ、理屈を超えた映画的感動だと思う。
いかがでしょうか。さきに、
つまんねー。 ★
意味わからない。最悪。 ★
と書かれた評がたくさんあると書きましたが、もちろん、1,800円払って観た映画がつまらない、と感じたら、「つまんねー。 ★」でもいいんですよそりゃ。感想は人それぞれ。でも、映画を作る方はまぁ、2時間もあればなんとかいろんな面白さ、複雑な背景や意味をそこに込めようと奮闘していることが多いものです。そうじゃなくて狙いとして本当に「最低。 ★」って言われたがってる映画もありますけどね。
いろいろメタ視点的、アカデミー会員ウケはそりゃいいでしょう的なところが映画としてイマイチ、という意見もわかります。「映画に詳しいオレ様には理解できるけど、リテラシーのないおまいらには分かるまい」的な言い方でこの映画を語る自称映画通がいるのも気に食わないのもわかります。『バードマン』は「深読み」したくてたまらない人がとうとうと語れる仕掛けをちりばめまくった映画だからです。
短くても、要点を押さえた評論もあります。指南役さんはTwitterでこんなふうに書いてらっしゃいます。
これなんかは、実際に映画製作に何本も関わり、たくさんの映画を観てきた指南役さんがおっしゃるから、じつは的を射ていて、あえて究極に短く、シャレの効いた寸評になってるんですよね。これ実は、面白がり方のひとつだと思うんです。僕がここまでクドクド書いた話とそんなに変わらない内容を40文字くらいでおっしゃってますからね。
でも、
「わけわかんなかった。すっげーつまんねー。 ★」
とだけ書き込む人は、一回しかない人生、もうちょっと面白がりようはないんスか、と思うんです。
まず、なにがつまらないかぐらいは言葉にしましょうよ。それから、どこか一カ所ぐらいグッときたとこはないか思い出しませんか。「わけわからない」ならスマホでいいから、ちょっとだけ調べたら意外なほど頭の中でつながって、わけがわかってくるもんだと思うんです。
映画や、絵画、音楽でも、子供に対して一番良くない教育は、「事前の知識なんかなくていいから、ただ感じて感想文を書いてみましょう。理屈ではなく、なにを感じるかが大切なのです」というやつです。これが実は最悪の教育方法なのです。
人間は、すべてなにかの「文脈」のなかでものを創ります。なぜクラシックの交響曲は4つの章に分かれていて、曲全体が1時間以上あったりするのか? …何も知らないで聴かされたら「すっげーつまんね。 ★」です。なぜスープの缶詰やバナナがポップアートと呼ばれて面白がられるのか? …そこに至る経緯を知らなかったら「わけわかんねー。 ★」です。ほんとうになにかを面白がりたければ、それが作られた歴史と、形式がさだまった理由、その作品によく似た作品はあるか、似ているならどう乗り越えようとしたか、その作品がその後どんな影響を残して、本人や他の人がどんな作品を作ったか、などを齧ってみるのがいちばんです。
人生には、多分それをやってみるだけの時間があります。値打ちがあります。それを「うんちく」と言って嫌う人もいますが、他人に偉そうに語るためではなく、自分で楽しむためにするのです。嫌うべきはうんちくではなく、うんちくんのほうではないでしょうか。
僕なんかは単に、1,800円払ったんなら、1,800円分面白さをみつけたほうがトクだと思うんですよね。「バードマン」には合計4,420円も払ってしまいましたが、そのあと時間をかけて、それくらいの面白さが見つかりました。
1,800円払うどころか、面白がりようによってはタダで面白かったり、面白がった上にお金がもらえることもあります。道ばたで石ころ一個拾ってきて、その模様や形をさも珍しい物のように語り、その石が辿った歴史をでまかせで作り、いいかげんな科学的な考察を加えて、挙げ句の果てに「おじいちゃんと石ころ」という詩集をつけて知らない人に拾った石ころを1,800円くらいで売りつける、それ、面白い人生だと思うんですよね。
そんなこんなで、僕は来週もなにかの映画を観て、でまかせ書いて売りつける、そんな人生を歩いていこうと思います。お、この石ころいいな。

映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(Filmarks)