NGワードは「怪演」と「感動」。
映画『セッション』
ふだん広告代理店でコピーライター/CMプランナーをしている僕が、映画や音楽、本などのエンタテインメントを紹介していくという田中泰延のエンタメ新党。
なにせ無名のサラリーマンなもんで、名前が読めないというご意見をたくさんいただきました。泰延と書いて「ひろのぶ」と読みます。当て字もいいとこです。父に代わりましてお詫びと言いたいが別に謝ることじゃない。お父さんごめん。
「かならず自腹で払い、いいたいことを言う」をこの連載のルールにしているのですが、どちらかというと、観てから読んだ方が話のタネになるコラムです。というか、ネタバレなしで、さも面白そうに書いてあって、観に行きたくなる文章、それはただの宣伝です。ものすごく映画を観にきてほしい映画会社が、ものすごくお金の欲しいライターに書かせているのです! と悪いことのように言いましたが普通のことです。
あと「映画評にしちゃ長いわ」というご意見もたくさん頂戴しておりますが、連載7回目、今回はだいじょうぶです。安心してください。そんなに長くありません。なぜなら私ではなくいろんな人がめちゃくちゃ長い映画評を書きまくっているからです。
そんな、僕が言うことなどもはや残ってない映画は、『セッション』。予告篇をどうぞ。
映画『セッション』予告篇
出典:YouTube
本年度のアカデミー賞®作品賞を獲得した『バードマン』を観に行くつもりが、時間が合わなくてなんとなく観てしまったんですが、なかなかどうしてぐったり疲れる、それでいてなんだか妙な映画でした。
予告篇は見たことがあって、なんか、ドラムがバタバタいうとるな、と思ってたんですが、まったくその通りでした。
アカデミー賞®で3部門を獲得した『セッション』ですが、これ、低予算映画なんですよ。監督のデイミアン・チャゼルさんも、これを作った時点でまだ28歳。

ストーリーも、ものっすごくシンプルです。名門音楽学校でジャズドラマーを目指す主人公が、鬼のような先生にしごかれる、それだけです。
主役アンドリューを演じるのは、マイルズ・テラー。ちょっと若い頃のエドワード・ノートンを思い出すような、線の細い感じの役者さんです。でも、えらい元気に太鼓叩きよります。

で、なんといっても本当の主役はこの人です。鬼教師・フレッチャー役のJ・K・シモンズ。

怖い! もうトラウマになるくらい怖いです。
本年度のアカデミー賞®助演男優賞、噂によると満場一致で決まったらしいですけど、どこが助演やねん。主演やろ。

とにかく、教え方がめちゃくちゃなんですよ。ビンタは当たり前、パイプ椅子まで飛んでくる。しかも罵るときは思い切り人格否定してきます。
こういう、ツルツル頭の鬼教官、というのは映画史に燦然と輝く何人かの人がいまして、まずは『愛と青春の旅だち』のフォーリー軍曹。

海軍士官学校に入学したリチャード・ギアを鍛え上げます。

鬼教官を演じたルイス・ゴセット・ジュニアは、この演技で見事、アカデミー賞®助演男優賞を受賞。今回、『セッション』でJ・K・シモンズの出した結果は、まさしくこの成功の意図的なエピゴーネン(なぞり)と言えます。
ですから、「J・K・シモンズの怪演!」とか書いてある記事は、適当過ぎます。キャスティング、監督の演出、本人の演技、すべて計算通りですから。「怪演」というのは、微妙なキャスティングのズレがあり、監督の演出意図をちょっとはみ出してしまった結果、映画史上に残る演技のことです。
鬼教官その2。

『フルメタル・ジャケット』のハートマン軍曹ことR・リー・アーメイ。卑猥な言葉遣いと人格否定で海兵隊員を殺人機械に仕立て上げます。

この2人に、今回のフレッチャー先生を入れて映画界の「鬼教官御三家」が完成しました。ルイス・ゴセット・ジュニア、R・リー・アーメイ、J・K・シモンズと名前がクドい所も共通点です。脚本家の皆さん、急いでください。映画界にはまだ鬼教官の席が空いています。最後の席です。そうすればその人を入れて「鬼教官四天王」と呼んでもらうことができます。ただし名前のクドい人でお願いします。
この3人の鬼教官としてのありようには、微妙な違いがあります。
『愛と青春の旅だち』では、軍曹は育て上げた士官の部下となります。「乗り越える」というテーマが明確です。また、『フルメタル・ジャケット』では、戦争に勝つため殺人機械に仕立て上げた兵士に、それゆえに殺されるという皮肉を扱っています。
今回の『セッション』の鬼教官はどちらのパターンでもありません。なぜなら、フレッチャー先生のやってることはただの理不尽だからです。
理不尽な教育に見えて、正しい映画的感動に導く鬼教官もいます。『ベスト・キッド』のミヤギ老人です。

パット・モリタ演じる、鬼教官というより「老師」は、空手の修行に来たはずの少年に理不尽なことばかりさせます。有名な「ワックスかけ」のシーンです。

しかしこの意味不明な教育は、クライマックスの空手の動きに活きて、観客は「なるほど! そうか!」と叫ぶ仕組みになっているのです。マンガチックですけど。
僕も、広告会社に入社して「コピーライターを目指しています。よろしくお願いいたします!」と挨拶したら先輩に「じゃあ、これに あいうえお かきくけこ って五十音をずっと書きな」と原稿用紙をドサッと渡されました。言われた通りに何百枚も「あいうえお かきくけこ さしすせそ」と書き続けて、別の先輩に「これはきっと、ベスト・キッドのワックスかけみたいな修行ですよね! いつか文章を書く時に華麗に活きてくるんですよね!」と尋ねたら、「お前はバカか? ただのイジメに決まってるだろ」って言われた、今となってはいい思い出があります。今からでも告訴してやろうか。
裁判はおいといて、では、『セッション』の、いまひとつ理由がわからない、理不尽なシゴキは、いったいなんでしょう。
結論から言うと、僕は、この映画「ポルノ」に見えました。SM調教ものです。
この映画、音楽が題材ではあるんですが、べつにミュージシャンじゃない僕でも、音楽はどうでもいい扱いになってることがわかります。音楽の素晴らしさを感じるポイントは、なにもないです。
フレッチャー先生の指導は、まったくテクニック的なレクチャー風なティーチング感がなく、ラーニングできません。ほんの1秒でドラム演奏を止めて、ただただ、「遅すぎる! 田舎へ帰れ」とか「速い! そんなことだからお前の両親は離婚するんだ」とか、もうまったくデタラメです。ほかの生徒達も、オドオドビクビクしてロボットのように練習させられて、映画の最後に彼らがミュージシャンとして輝くか? というとそうでもない。
ドラマーとして有名になりたい、という主人公も、どうも音楽そのものを愛している雰囲気が感じられない。他人を見返す手段としてだけ考えてますね。
だから、「音楽がもたらす感動!」とか書いてある映画評は、音楽を聴いたことない人か、この映画を観ていない人が書いた可能性があります。
フレッチャー先生のやってることは、ぜんぜん、音楽のためでも何でもない、性的嗜好を満たすSMプレイですよ。この構図がずっと続く映画です。見てください。

テカテカ頭に犯され続けて、悲鳴を上げ続けるという映像、

しかも、犯され続けた方は、血がにじんできます。
はっきり言って無修正SMポルノですよ。
ほんとに、音楽にはそんなに思い入れがない映画なんですよ。途中、アンドリューが、フレッチャー師匠の演奏はどんなもんやろ? と覗いたら、わりとしょうもないメロウなピアノを演奏しててずっこけますし、そのあとフレッチャーが、なぜ俺は生徒をいじめるか? という理屈として、伝説のジャズマン「バード」ことチャーリー・パーカーも下手くそだった若い頃にシンバルを投げられたから偉大になった、という逸話を持ち出しますが、まったく説得力がありません。
上岡龍太郎がテレビで言ってて感心したことを思い出しました。落語家の「女遊びは芸の肥やしだ」という発言に対して、「わかりました。では、あなたがセックスをしたらどのように落語が上手になるのか、説明してください」
その程度の根拠のなさです。
そもそも、『セッション』というタイトルが、邦題です。しかもちょっとズレてる。だいたい、主人公と教官は一度も「セッション」なんかしてません。ドラマーと指揮者ですし、音で会話する、というシーンはないんです。
原題は ” WHIPLASH ” 。劇中で主人公がシゴきまくられる曲の題名であり、しかも「鞭」という意味です。かなりSM的な暗示で、いいタイトルですよね。さらに、車がぶつかった時になる「ムチ打ち症」のことでもある。これは、後半のあるシーンから先は重要になってきます。
主人公アンドリューは、ドSのフレッチャーの責め苦に焦りまくり、自動車事故を起こします。その場面から、この映画のトーンがちょっと変わってくるんですよね。
タランティーノの『デス・プルーフ』ってご覧になったことありますか。

前半、悪い殺人鬼のカート・ラッセルに女の子が次々と殺されちゃうんですけど、後半は、別の女の子達がめちゃくちゃ爽快に復讐を果たすんですよ。僕、映画館で拍手が沸き起こったのを体験した唯一の映画です。
それと似たことがこの映画に起こります。
えんえんSM動画を見せつけられて、ドMな気分に感情移入しまくってた観客が、一気に復讐します。
ラスト9分19秒、ってポスターや予告篇にもありますが、そこで受け一辺倒だったアンドリューが、ドMだった主人公が、まさかの攻めに転じます。
被虐の極みを味わったあげく、「わたしの番よ!」ってまさにSMのノリです。
ドラムはドンドコドンドコ鳴ります、シネコンはとなりのシアターが近いんで、たぶん横で『クレヨンしんちゃん2015 オラの引越し物語~サボテン大襲撃~』とか観てる人は大迷惑です。

周りの観客の腰が動いてました。僕の腰も動いてました。
この映画は、ぜったいに映画館で、それも前の方の席で観るべきですね。いろいろ不満はあるんだけど、ラストの大音量、興奮に「えっ? なんで? どうしてわたしの腰が浮いてるの?」っていう上の口は嫌がっても溝の口はどうかな的な体験ができますんで、ぜひどうぞ。
さて。
この映画に対して、多くの評論家が長文の意見を述べる、という事態が起こっています。まずはジャズ・ミュージシャンで文筆家の菊地成孔さんがこの映画を批判しました。
なんせ原稿用紙40枚分もあるんで、勝手ですみませんが僕が要約しますと「ジャズの専門家である自分から見るとぜんぜんダメ」ってことでした。
それに対して、映画評論家の町山智浩さんが猛反論。
2015-04-17 菊地成孔先生の『セッション』批判について
これも長いです。恐縮ですが勝手に要約させていただきますと、「この映画はダメじゃない。菊地さんは監督の意図をわかっていない。これは思わずガッツポーズしてしまう、最後にカタルシスのある映画」と絶賛ですね。
さらにそこへライターで音楽プロデューサーでもある高橋健太郎さんが参戦。
だいたいですけど「菊地成孔さんがいうように、音楽のレベルが低いのであって、町山さんには到底同意できない。が、菊地さんのようなジャズミュージシャンが批判することこそ監督の意図だ」という難しい着地をされています。高橋さんは、「後半は夢オチではないか?」という鋭い指摘もされていますね。
そして、ミュージシャンで大学の先生でもあるヲノサトルさんも論を展開します。
ヲノさんの論旨は明快です。「これは音楽映画でもジャズ映画でもなくてスポ根、つまりスポーツ根性マンガだ」と。
加えて、ラッパーで、近年は映画評論で有名なライムスター宇多丸さんがラジオで解説する、ということになってまして、この状況そのものがミュージシャンのバトル、すなわち「セッション」みたいな雰囲気です。映画タイトルとしてはズレてましたけど、こっちでは大盛り上がりです。
そんなにまでして、なぜすでに有名なみなさんが映画を批評するのでしょうか。
作家・開高健は『新しい天体』の中でこう書いています。
「批評の出発点で終点でもあるのは直感の第一撃なのであって、それからあとの言葉は御世辞か自己宣伝かである。」
なるほど、さすが文学者はいうことが違う。批評することは「自己宣伝」なんですね。人様のつくった素材をまな板の上に置いて、オレはこう思う、オレはこんな味がした、オレならこう料理する、オレがオレが、のオレ様世界が批評なのです。無名のサラリーマンである僕が、そんなオレ様世界に身を投じると、大変なことになります。
ロラン・バルト。フランス人の思想家ですが、『第三の意味』という本で書いています。「聴いてくれと頼むことは、主体から他の主体への全面的な呼びかけである。それは、二つの主体の(声と耳とによる)ほとんど物理的な接触を最優先する。それは転移を生む。」何を言ってるのかさっぱりわかりません。しかし、そのあとに続く文章はわかりやすいです。
「《私のいうことを聴いて下さい》というのは、《私に触れて下さい、私が存在することを知って下さい》ということだ。」
開高健と同じこと言ってますね。批評は、かまってちゃんの叫びなのです。
そもそも、何かを批評しようって態度は、モテません。「私に触れてください」ったって、映画観て理屈こねるやつに触れたいか?
映画館出ていきなり「フランク・ダラボンの演出ってさあ、エクリチュール的な観点からみると、どう思う?」などと聞いてくるやつは、絶対にキモいのです。そしてそれに「そうだね。まず『ショーシャンクの空に』で特徴的だったカメラワークを、パロールとして捉えると」などと答えるのも絶対にキモいのです。
そんなキモいやりとりをしている間にもキモくない男はフェラーリで湾岸線を走ってシャレオツなバーで女の子と酒を飲み代行運転を呼ぶがフェラーリは2人乗りなので代行運転のドライバーの助手席に乗ってしまい女の子をバーに忘れて帰るのです。女の子をうっかり忘れるぐらいモテるのです。そしてその翌日には違う女の子とお台場でバーベキューをしているのです。
だから、ほんとうは映画を観たら、意見を言うとか文章書くとかではなくて、となりの女の子に「面白かったね」と短く言ってすばやく肩を抱くのが正しいことなのです。
とはいえ、人間は、見た聞いた、すべてのものに意味を見つけたいのです。できたらその意味を言葉にして、文字にして、他人に確認したいのです。でないと、生きている事自体がそもそも意味が分からないのだから、さらに意味が分からないものを見せられた日には、生きているのがもっと怖くなるからです。
この映画『セッション』を観た日なんかにゃあ、なぜフレッチャーはあんなに恐ろしいのか、なぜ主人公はあんなに耐えるのか、なぜ彼らは音楽を演奏するのか、それらの意味を自分なりに見つけないと、怖いまま生きていかなくてはならないのです。
なので、しかたなく見たものの話をする僕ですが、なにかを批評するときには、この文章が頭をかすめます。
『ハックルベリー・フィンの冒険』、トム・ソーヤーのお話にも出てきますね、その本の冒頭にある、作者マーク・トウェインからの<警告文>です。
「警告
この物語に主題を見出さんとする者は告訴さるべし。
そこに教訓を見出さんとするものは追放さるべし。
そこに筋書を見出さんとする者は射殺さるべし。」
おっかないですね。映画や、小説、物語を創る人の側からしたら、批評なんてまっぴら御免なんです。
それでも、来週もなにかの映画をみて、ぐだぐだと書いて、生きてる怖さから逃げたいと思います。次回は、『バードマン』です。
