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二人のはじまり、二人の3年 ( AD )

廣瀬 翼


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 ホテルフロント階の自動ドアをくぐると、その人はすでに立っていた。がっしりした黒の上着に、黒いバックパック。一色でまとめた上半身とは対照的に、ボトムスは明るい辛子色で、足元を飾る靴はグリーンとネイビーの間のような、明るいけれど落ち着いた色。白いソールと靴紐に、春を先取りしたような軽やかさを覚えた。

「おはようございます!」

 こちらに気がついて、挨拶をしてくださる。身体の内側からしっかり出てきていると感じる、しかし大きすぎず温かくて心地よい声。半年とちょっとぶりにお会いする、おのみち鮮魚店の鈴木創介さんだった。
 鈴木さんは、待ち合わせ場所のホテルに宿泊している田中泰延と上田豪よりも、そこから徒歩5分のホテルに宿泊している加納穂乃香と私よりも、早くにその場に着いていた。それも、誰よりも爽やかに、元気よく。それが、鈴木さんなのだ。

「ひろのぶと、おのみちへ行く。」連載の最後となるこの記事では、当初は鈴木創介さんと田中泰延の出会いと、おのみち鮮魚店へ寄稿することになった経緯を、尾道の夜に美味しい食事とお酒を前に聞いた話を元にして、二人の対談のような形でまとめて編集後記としようと考えていた。
 しかし、田中泰延の『海の道、空の道、追憶の道』の公開翌日、その原稿に応答して、鈴木さんが素晴らしい一篇をおのみち鮮魚店のサイトで公開くださった。もうそれで、十分なのだ。編集後記は、鈴木さんの一篇が十分に担ってくれている。二人の出会いも、経緯も、すべてが載っている。

 では、私は何を書こうか。

 この連載企画の発端となった、田中泰延の3年前の取材時。私は、『全部を賭けない恋がはじまれば』の編集を担当することになり、ひろのぶと株式会社の外部スタッフとなった。その中で、尾道取材についても様子を聞いていた。
 それから3年。そばで見てきたと言うには少し遠く、しかしまったくの他人として見ていたと言うには少し近い距離から、私は鈴木さんの信頼に応えたいともがく田中泰延を見てきた。

 ならば、その視点から見てきた二人の物語を、少しばかし田中泰延の話には寄るとは思うが、おそらくは田中泰延が自身で書くことはないであろう話を、本稿では語ろうか。設計図はない。指の走るままに書いてみようと思う。



 鈴木創介さんと田中泰延の出会いは、2016年にまで遡る。

 当時、泰延さんはまだ電通社員。Twitter(現X)で盛んに「カワウソが成長したらラッコになり、ラッコがさらに成長してビーバーになる」など、生活に直結しないお役立ち情報を発信。さらに『街角のクリエイティブ』で、おそらく日本一長い映画評の数々を更新し、ある種のインフルエンサーとして注目されはじめていた頃だ。

 鈴木さんは、そんな泰延さんのフォロワーだった。「なんだか、毎日おもしろいことをつぶやいている人だな」と興味を持っていたところ、たまたま共通の知人がいることがわかり、会ってみたいと伝えたという。
 この頃はまだ、「おのみち鮮魚店」は生まれていない。鈴木さんは京都でウェブマガジン配信サービスの運営をしながら、「京都学園大学(現・京都先端科学大学)」の広報のお仕事をされていた。

 そうして、5月16日。二人は大阪の大衆肉食堂「さぎり(現・源兵衛)」で、赤身肉の塊を囲うことになった。
 イベント時など不思議なTシャツを喜んで着ることがある泰延さんだが、この日は胸元に“IT’S NOT YOU”とプリントされていたそうだ。

「お前じゃない、って言われているのかと、妙な緊張が走りました」

 鈴木さんは笑う。相手は広告クリエイターで、SNSで注目されている人。初対面でそのメッセージは、それは緊張するだろう……と聞いていると、しかし鈴木さんも初対面の場でそんな緊張をしていたとは思えない積極的な提案を、その日にしていた。

「私の勤務する京都学園大学のサイトで、画期的なコンテンツを作りたいんです」

 大学で学ぶとは、こんなにおもしろいことなんだと知ってもらいたい。受験生だけでなく、「大学の学問って何をするんだろう?」と思うすべての人に届ける記事を、はじめたい——そんな熱い想いを語る。そうして、その聴き手の一人に田中泰延になってもらえないか、と話したそうだ。

 お酒が入っていて上機嫌だった田中泰延は「ああ、いいですね!」とその場で賛同したという。が、お酒の力だけではないだろう。
 泰延さんは人の好き・嫌いがはっきりしているところがある。面倒臭いことも好まない。まして、当時はまだ電通社員。すぐに「やりましょう」と言ったのは、きっと、初めてお会いした鈴木さんが、とても気持ち良く「一緒に何かをやりたいな」と思わせてくれる人だったからなのだろう。

 ところが、鈴木さんの提案はそれで終わらなかった。彼には、より具体的なイメージがあった。

「いま、webで人気のライター、“さえりさん” や “カツセマサヒコ” さん。それに漫画家の“かっぴー” さんに記事を書いていただくのはどうでしょう?」

 泰延さんはすぐに、「みんな親しいですよ、なんでも聞いてくれます」と答えた。

 ……が、しかし。田中泰延は、その誰とも面識がなかったのだ。翌日、慌てて三人に「はじめまして、田中泰延と申します」とメールし、新幹線に飛び乗り、奇跡的に全員とファミレスで対面したという。

 この話を聞くたびに、私は胃の底がヒヤッと凍る。とてもドラマチックな話だが、そんな無茶はもうその一回こっきりにしてほしい。
 

 泰延さんが新幹線に飛び乗っている頃、鈴木さんのほうも大学に対して働きかけていたそうだ。

「ベロベロになりながら連載をやりましょうって話をして。翌朝、僕は二日酔いで資料をつくって、事務局長に『これやりたいんです』って提案したんです」

 こうして、鈴木さんと泰延さんの2年・計50本以上のコンテンツにわたる仕事がはじまった。


「あの仕事は、楽しかったですねぇ」
「楽しかったですねぇ」
「中身のある仕事でね」
「大学の先生の話を聞くの、すごくおもしろいんだよね」
「取材が終わったあと、京都の街に飯食いに出るのも楽しみでした」

 9年が経った、尾道の夜。生口島のレモンをふんだんに使ったレモンサワーを手に、二人は振り返る。そのキラキラした顔は、青春を共に過ごした友人同士のものだった。


 連載は、さえりさん、カツセさん、泰延さんが毎月1本記事をアップするのがお決まりだった。しかし、連載開始からしばらくした頃。ちょっとした変化が訪れる。

「徐々に1人アップしなくなって。あれあれって」

 鈴木さんの話を聞きながら、ニマニマする上田豪さん、加納穂乃香さん、私。

「大学の職員にも聞かれるんですよ。『なんか2本しか上がってないけど、大丈夫なん?』って」

 そ〜っと視線を逸らす、田中泰延。

「そこで局長のところへ行って、『ちょっと1個上がっていないんだけども、この人は待っていれば絶対いいものが出てくるから』って言ったんです。そうしたら、局長もそう思っていたらしく、『待とう』と」

 大学という組織で、広報の計画や予算もあるだろう。記事本数はきっちり決めて運用されるのが通常だろう。そこで、しかしそんなことを言わず「待とう」という選択ができる。それも仕方なくではなく、局長もそうおっしゃる。素晴らしい人たちだと驚く。

「出てくる原稿が、もう秀逸なんですよ」

 熱くその感動を伝えてくれる鈴木さんの声に、泰延さんは少し俯いてはにかんでいた。遅れるのが常習化した申し訳なさと、その言葉・信頼への喜びと。そのこしょばゆい、照れているような表情は、カメラを向けてはいけないような気がして、写真には撮れなかった。

「おかげで、待つのは慣れました」と、鈴木さんは加えて笑った。



 京都学園大学での連載『京都学園大学に行ってみた』は、田中泰延にとって一つの大きな転換期となった。
 この連載中に、24年勤めた電通を退職。「青年失業家」となったのだ。

 泰延さんは電通の退職理由を「早期退職の募集を見たから」「『リンダ・リンダ』を聞いてガツンときたから」など、さまざまに語るが、私は勝手に、きっと『京都学園大学に行ってみた』の体験の影響も大きかったのだろうと想像している。
 外部の人と組んで、人の話を聞いて、“田中泰延”として顔と名前を出して記事にする。それが広まり、反応がある。
 それまでも『東京コピーライターズクラブ』でのリレーコラムや『街角のクリエイティブ』での映画評は書いていたが、『京都学園大学に行ってみた』のような協働作業やインタビュー記事の制作は、ほとんど初めての体験だったのではないだろうか。


 そして、もう一つ。田中泰延はこの連載が元で大きな励みとなる言葉をある人から受ける。

「糸井重里さんが、『クリエイティブ・ディレクター次第で、こんなにコンテンツは変わるんだと思いました』と言ってくださったことが、とてもありがたくて」

 その言葉が、どれだけ田中泰延の自信になったのだろう。
 その言葉がなければ、田中泰延はここまで書くことを続けてはいなかったかもしれない。『読みたいことを、書けばいい。』も出ていなかったかもしれない。そうしたら、ひろのぶと株式会社だって、なかったかもしれないのだ。

 田中泰延に打診をしてくれた鈴木さん。自由に楽しく、一緒にコンテンツをつくっていった鈴木さん。原稿が遅れても待ってくれていた鈴木さん。そして、そのすべてを受け入れてくれた京都学園大学。
 今、尾道を訪れている4人のチームも、鈴木さんと泰延さんが出会っていなかったら、生まれていなかったかもしれない。



 京都学園大学の連載が終了し、しばらく経った2020年。
『読みたいことを、書けばいい。』が16万部を突破し、書籍の世界に関心と問題意識を抱いた田中泰延は、「ひろのぶと株式会社」を設立した。

 同じ年、鈴木さんは生まれ故郷の広島県・尾道市へ戻る決意をする。

「インターネットの事業が回るようになって、運用はリモートで十分できるので、都市部にいなくても大丈夫だなと思えたんです」

 海が見える環境が好き——そう話す鈴木さん。子育ても含め、尾道は暮らしやすいそうで、「東京にも京都にも住んでいたことはありますけど、もうあの大都会で暮らすことは考えられないですね」という。

「何か尾道を発信する事業はしたいなと思っていて。それで、『僕が新しい事業をするとき、記事を書いてくれませんか』と、泰延さんにお願いしたんですよ」

 もちろん、泰延さんは「喜んで」と約束した。共に一つの仕事を乗り越えてきた、友人への信頼だった。

 その約束の「新しい事業」の話が届いたのは、2022年。鈴木さんはコロナ禍による社会の変化の影響も受けながら、2年をかけて「尾道産 天然真鯛の炊き込みご飯」を開発した。

 そうして、田中泰延は2022年2月に、尾道を訪問する。



「それにしても、今回は3年お待たせした記事の追加取材で、『すみません!』と言わないといけないくらいなのに、旅程の何もかもを完璧に手配していただいて……」

 至れり尽くせり。滋味深い瀬戸内の海の幸をいただきながら、ほろりと口にする。

「ひろのぶと、おのみちへ行く。」の尾道観光の2日間は、すべての工程を鈴木さんが準備くださった。
 プロのツアーコンダクタ―なのではというほど、完璧な工程。重要な名所を、普通なら2日ではまわりきれないであろう数まわり、しかし窮屈ではなく十分に私たちが楽しめる時間がある。「アイスが食べたい!」なんて急なオーダーにも対応くださった。

「まあ、社員旅行みたいなものですからね」
「……バレてた(笑)!」
「もともと、昨年の夏頃、皆さんで尾道に遊びに来ませんかと、泰延さんに提案していたんですよ」


 そう、鈴木さんは2024年から「尾道に来ませんか?」と声をかけてくださっていたのだ。そこには、「記事とは関係なしに、尾道の魅力を知って楽しんでほしい」という彼の尾道愛が溢れていた。

 加納さんと私は「行きたい!」と、そのお言葉に大いに喜んだ。


 しかし、すぐには実現しなかった。
 スケジュールだけの問題ではない。
 田中泰延の、苦悩があった。


 鈴木さんを信頼しているからこそ。鈴木さんの期待に応えたいからこそ。そして、鈴木さんが記事とは関係なしにご厚意で尾道旅をオファーくださっているのが痛いほどわかっているからこそ。泰延さんは、甘えられなかった。



 鈴木さんが「おのみち鮮魚店」の事業を立ち上げる半年前の2021年夏。泰延さんは、新型コロナウイルスに罹患した。
 デルタ株。最も感染力と重症度が重かった時期だ。ワクチンもまだ2回目を打つ前だったという。

 一時は感染者隔離のホテルに入れられたが、1ヶ月ほどで無事回復。9月からは『会って、話すこと。』のプロモーションに動いていた。
 ——と見えていたのだが、実際は回復とはいえない状態だった。


「ブレインフォグ」。
 頭にモヤがかかって、長い文章がわからない。長い話がわからない。


 長すぎる映画評で名が広がったのに。
 長く難しい話を、よく調べ、長いけれど読みやすくわかりやすく書くライターとして知られたのに。
 前年の2020年の8月6日には、広島県のサイトに『Hiroshimas』と題して寄せた、広島への旅と尾道市向島の生まれのお父さんの長い記事が、一時はアクセス集中でサーバ容量が追いつかず、県がサーバを増強するほどの反響を呼んだのに。


 社会に出てからこれまで、コピーライターとして扱ってきた言葉。
 文筆家として記事を記すのに欠かせない言葉。


 その言葉を、田中泰延は失った。



「コロナでブレインフォグになって、長い文章が読めない、書けないと言っていたのに、どうして鈴木さんから依頼があった時、すぐに受けたんですか?」

 レモンサワーの力あってだろうか。いつもなら聞かないであろうことを、ふと聞いてしまった。
 その質問に、泰延さんは消えそうな声で答えた。

「その時はな、もう半年経っとるし、取材をして話を聞けば書けるんちゃうかと思ったんや」

 これまで、最初の取材から1年、2年、3年……という話題が上がるたびに、「一生懸命考えすぎて、『うーん』と言っている間に3年が」と笑いにして伝えてきた泰延さん。その彼が、初めて社員・スタッフ以外の前で、心痛な本音をこぼした瞬間だった。



 2022年。週に1回の社内定例会では、必ず聞かれていた。

「尾道の記事の状況は、いかがですか?」

 書きたいのに、書けない。
 書くことで生きてきたのに、書けない。

 短文のTwitterは問題なくできる。会話も困ることなくできる。
 比較的早い段階で、会話では難しい話も図式化するなどしてパパッと説明するいつもの泰延さんがいたから、「書けない」がどの程度のものなのか、周囲からはわからない。

 この辛さがいかほどのものか、私には想像すらできない。

「記事の状況はいかがですか?」と言われるたびに、「いやあ、すみません」「できていません」と答えていた泰延さん。いつも笑いにくるんで話していたが、記事が出来上がったいま、その時のことを振り返ると、なんと強かったのだろうと思う。



 それから泰延さんは、段階を踏んで“リハビリ”をした。

 自身が編集責任者となった『スローシャッター』。田所敦嗣さんの原稿を編集しながら、こう漏らしたことがある。

「編集が、楽しんや。読めるんや。コロナ以降、どんな文章を読んでもどこか掴めなかったのに。田所さんの短篇は、読めるんや」

 そうして、『スローシャッター』では直販サイト・Hironobu & Co. ONLLINE STOREの特典に自身も短いエッセイを寄せた。

「田中泰延が1億年ぶりに書いたエッセイ!」など言っていたけれど、きっと心情としては誇張でもなんでもない、そのぐらいの壁があったのだろう。

「これが、ええエッセイなんですわ」

 上田豪さんデザインのパスポートを模した小冊子を手に語っていたその言葉は、いつもの“泰延節”や書籍の完成の喜びだけではない、「書けた」感慨深さもあったように思う。

 その後も、イベントの出演や推薦コメントの執筆、『「書く力」の教室』の刊行など、少しずつ段階を踏んで活動を広げていった。読むことと、一定の長さまで書くことは、十分回復しているように見えた。



 それでも、書けなかった。

「取材に行って、その内容だけやったら書けたかもしれん。でも、ちょうどそのタイミングで、お父さんの絵が出てきたんや。お父さんが昔描いた、尾道の絵。これは、その記憶とも交差して書く記事しかないと思ったけど、入り組んだ構成になってしまって、書けんかったんや」

 田中泰延が「少しだけ書きはじめてみて、そこから手繰るように続けていく」タイプの書き手であれば、また違ったかもしれない。しかし彼は「頭で仕上がった原稿を写経する」書き手。一文を書き出したからといって進むわけでもない。


 先日、泰延さんがPCの過去のフォルダを探っていたら、2024年の冬に書きかけたwordファイルが出てきた。開いてみると、そこにはお父さんが描いた尾道の絵と、たった一行、「尾道へ行った」。

 そんなファイルを発掘して、彼は「ちゃんと書く気はあったんや、あったけど、うーんと悩んで2年かかって1行だけ!」と涙が出るほどに笑っていた。

 きっとこの時は、頭に一瞬原稿が浮かんだのだろう。でも、PCを開いたところで、また霧の向こうにうっすらと隠れてしまったのかもしれない。一行を書いても、そこから進められる人ではないのだ。


 そしてもう一つ、書けない理由があった。

「3年も経ってしまって、コロナの状況も変わった。古い情報だけで記事にするわけにもいかん、新しい情報を加えないとあかんと思う」

 適当にそれらしい記事なら、もっと前に書けていたに違いない。
 それだって、田中泰延だ。きっとそれなりのクオリティの読み物になっていただろう。

 でも、それではいけないのだ。それでは、急かすでもなく、責めるでもなく、毎年株主ミーティングにお越しくださって笑顔でお話しくださる鈴木さんに、申し訳が立たない。

 きっと鈴木さんは、「コロナの後遺症で、やっぱり書けないのです、ごめんなさい」と言っても、怒らない。「それは泰延さんが一番辛いでしょう」と許してくれてしまう。それでもきっと、今まで通りに接してくれる。そういう人なのだ。それぐらいに、田中泰延という人間を信じてくれている人なのだ。

 だからこそ、きちんと応えたい。


「鈴木さんが案内したいっておっしゃってくれてるんでしょ、行きましょうよ。きっと、気にせずに楽しんでほしいと思ってくださっているんでしょう?」

 2024年夏。「尾道に遊びに来ませんか?」という鈴木さんのお誘いに喜ぶ私に、泰延さんが言った。

「3年も待たせて、何もできていない。こちらが招いてお越しいただくのとは訳が違う。尾道に行って会わせる顔が、ない」



 状況が動いたのは、2024年12月。

『街角のクリエイティブ』の運営をひろのぶと株式会社が引き継ぎ、株式会社街クリを設立。田中泰延自身の過去の記事、「エンタメ新党」と「ひろのぶ雑記」の復刻を開始した。

 自分たちのメディアを持った。アウトプット先ができた。
 それによって、泰延さんの中で止まっていた3年間が動き出す。

「ひろのぶとの全員で尾道に行こう。そして、俺の記事だけでなく、みんなで記事を書き、それを『街角のクリエイティブ』で更新しよう」

 こうして、年が明けて2025年1月。
 今度は、田中泰延から鈴木さんへオファーした。

「みんなで取材へ行かせてください」

 提案資料には、こんな言葉が書かれていた。

今回の旅では、上田豪、加納穂乃香、廣瀬翼も書きます!
彼・彼女らが書くのに、私が書かないわけがない。いや、書かないわけにはいかない。
3年を経て、田中泰延、自分を「書くしかない」環境に追い込んで向き合います。

3年前ではまだ生み出すことのできなかった、新鮮な視線を交えたいいコンテンツを、みんなでつくってまいります。



 尾道での2日間も終わろうとしていた夜。別れ際に、鈴木さんとこんな会話をした。

「今度こそ、記事にしますから」
「楽しみにしています」
「最初の原稿のご連絡など、1ヶ月ぐらいいただくかと思いますが……」
「大丈夫です! 待つことには、慣れていますから(笑)」

 泰延さんの尾道取材の話題をすると、よく「3年も待つほうも、待たせるほうも、どっちも異常だ」と驚く反応をいただく。それは、そうだろう。

 でもこの3年は、ただの3年ではないように思う。

 二人の信頼であり、友情であり、そして泰延さんの『海の道、空の道、追憶の道』が生み出されるのに、必要な時間だったのだろう。



 尾道の駅の下、泰延さんに声をかけられた。

「つーさん、駅の文字が入るように、鈴木さんとの2ショット撮ってや」

 はいはい、と撮影し、「撮れましたよー」と言うと、泰延さんが「あっ」と声を上げる。

「ちょっと待って、3年前と同じポーズでもう一回撮って!」


 東京に戻り写真のデータを確認して、びっくりした。
「3年前と同じポーズ」の写真。10枚くらい撮っていたのに、そのすべてがピンぼけになっていた。

 それはまるで、「3年前」からもう解放されたことを表しているかのように。


 一つの約束が果たされたいま、鈴木さんと泰延さんの交流はこれからどこに向かうのだろうか。きっと今度は、そこに豪さんも加納さんも私も加わっている。

 3年後。次は、どんな写真になるのだろう。


2025.03.05 朝、お会いして
2025.03.05 漁港にて

2025.03.06 尾道大橋にて

2025.03.06 尾道駅にて、1枚目の写真
2025.03.06 中華「松本」にて

2022.02.02 尾道駅にて。泰延さん、ポーズも立ち位置も違いました(笑)。
2022.02.02 尾道駅にて

*『京都学園大学に行ってみた』:現在、同連載の記事は大学webサイトからはアクセスできなくなっていますが、国立国会図書館のウェブアーカイブ(WARP)に収録されており、当時の文章を読むことができます。

*『HIROSHIMAS』:2024年・年末、記事が掲載されていた『国際平和拠点ひろしま』のサイトが、不正アクセスを受けたことにより閉鎖。広島県webサイトおよび被爆・終戦80年特設サイトにて情報発信は順次再開されていますが、当記事については県にの窓口に問い合わせたところ、再掲載の予定・時期等は未定です。





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    1992年生まれ、大阪出身。編集・ライター。学生時代にベトナムで日本語教師を経験。食物アレルギー対応旅行の運営を経て、編集・ライターとなる。『全部を賭けない恋がはじまれば』が初の書籍編集。以降、ひろのぶと株式会社の書籍編集を担当。好きな本は『西の魔女が死んだ』(梨木香歩・著、新潮文庫)、好きな映画は『日日是好日』『プラダを着た悪魔』。忘れられないステージはシルヴィ・ギエムの『ボレロ』。