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ソムチャイと漁師【連載】田所敦嗣の出張報告書<第31回>

田所敦嗣


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大多数の仕事は、表には見えない力に依存している。
その裏には無数の判断や交渉があり、目立たぬ領域で絶えず合意が形成され、静かに成果という形を担保する。
そういう人々の存在に触れると、人はいつの間にか心を惹かれてしまう。

タイ南部に位置するクラビ(Krabi)は、美しいアンダマン海(Andaman Sea)に面する、温暖で穏やかなエリアである。
西側へ50キロ離れた位置には一大リゾート地であるプーケット(Phuket)がある。クラビはプーケットほど派手ではないが、アオナンビーチ(Ao Nang Beach)をはじめ、マリンスポーツが盛んなエリアである。

こちらは相変わらずキラキラしたリゾート地とは無縁の仕事だが、当時は地場の海老やイカが豊富に獲れ、その加工業でも賑わっていた。

つい先日、ラジオ大阪の番組『田中泰延のふたりごと』に出演させてもらった時、パーソナリティの泰延さんとベトナムでサーモンの加工をする話をしたが、当時はここクラビの工場にもノルウェーやチリのサーモンを運び込み、様々な加工を依頼していた。

当時としては珍しく、クラビには日本人の駐在も多くいて、仕事は概ね順調だった。

そんなクラビの工場で働くソムチャイ(Somchai)のことを知ったのは、仕事を始めて4年が経過したころだった。

ソムチャイのことを知らない人が彼を見たら、多くは怯むだろう。
日に焼けた屈強な体格に加え、背丈もある坊主頭の男は、誰が見ても「迂闊に話しかけてはいけない人」といった風貌だった。

僕はソムチャイがどんな仕事をしている人なのかわからなかったが、工場のスタッフに尋ねると、彼は地場に住む漁師から魚を買い付ける、いわばネゴシエーターだった。

ソムチャイが工場に顔を出すことは稀で、スタッフと短い打ち合わせをし、その後のディナーになると端の席に座り、常に笑顔でいる印象があった。

タイでは中国や韓国のような酒宴という文化はあまり聞かないが、タイミングによっては行われることもあった。
僕は体質的に酒が弱いこともあり、いざそれが始まるとうんざりしてしまうのだが、ソムチャイはそれを察してか、僕のグラスにビールを注ぐふりをして、ジンジャーエールを入れに来た。
僕がソムチャイのほうを見ると、彼はウインクをして静かに立ち去った。

ソムチャイは料理の取り分けに必要な皿や、乾杯に必要なビールを持ってきたりと、テーブルの隅々までとにかくよく気を配っていた。

クラビ空港では何度か、彼が車で送迎をしてくれることもあったが、ソムチャイは英語も日本語も一切できない。
車中でも彼は短い英単語を話す程度で、いつもニコニコしていた。
ある時は空港に着くなり、僕が髪型を変えたことに気づくと、大きな手で僕の肩を叩き、笑顔で親指を立ててくれた。
彼との短いやり取りが続くうち、穏やかで静かなソムチャイのことを、すっかり好きになってしまった。

ある滞在中に、一度もソムチャイを見かけないことがあった。
彼はどうしているのかとスタッフの何人かに尋ねると、彼らは少し戸惑ったような顔をして、また次に来る頃には工場に戻っているだろうと言った。

その滞在も帰国日に差し掛かる頃、オフィスの窓から外を眺めていると、頭の半分くらいが包帯で巻かれたソムチャイに似た男が歩いていた。
僕は驚き、彼はソムチャイかと訊くと、スタッフは頷いた。

何でも、ここ数週間の間に魚の相場に大きな変動があったようで、地場の漁師たちと価格の交渉で揉めに揉め、最後は屈強な漁師たちに殴られたらしい。
スタッフの話によると、一部のエリアにいる気性の荒い漁師とはよくあることらしいが、漁師に負けないくらい屈強なソムチャイが怪我をしている姿は、想像ができなかった。

僕はオフィスの窓を開け、外を歩くソムチャイに手を振ると、彼はどこかバツの悪そうな態度でこちらに手を振り返した。

僕が短い単語を繋げ、
「ディス、イブニング、ディナー、カミング?」
と言うと、彼はいつものようにニコニコしながら、親指を立てた。

その晩、ソムチャイは僕に怪我のことを説明しようとしたが、僕は黙って親指を立てた。

お互いに、それ以上その話はしなかった。

この日僕は、いつも穏やかな彼からは想像できないほど、彼の仕事は厳しく、時に命がけであることを知った。

ソムチャイと彼の仕事を知った日から、どの国にいても、工場の計量器には表示されない魚の重さについて、よく考えるようになった。


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田所敦嗣さんの著書

スローシャッター

スローシャッター
田所敦嗣|ひろのぶと株式会社

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    千葉県生まれ。水産系商社に勤務。エッセイスト。著書 『スローシャッター』(ひろのぶと株式会社)で、SNS本大賞「エッセイ部門」受賞(2023年)。フライ(釣り)、写真、野球とソフトボールが趣味。人前で声が通らないのがコンプレックス。