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2026年2月25日「街角diary」廣瀬翼がお届けします。

廣瀬 翼


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物語を見ている。——五輪フィギュアを通して

ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピックが閉幕した。

日本代表チームは冬季五輪の最多記録となる24のメダルを獲得。出場国の中でも10位の獲得数だという。どの競技もそれぞれにドラマがあり、連日ニュースもSNSもオリンピックに盛り上がっていた。

中でもフィギュアスケートは団体で銀、男子シングルスが銀・銅、女子シングルスも銀・銅、そしてペアで金。こんなに強くなったのかと、驚いた。

特に「りくりゅうペア」の優勝。日本はシングルスは強いのに、ペアとアイスダンスは弱く層が薄い——少し前までそんなイメージがあったし、解説でも言われることがあった、そのペアが金。そしてその解説を、日本でペアを切り拓いてきた高橋成美が解説しているのも、グッとくるものがあった。

そうして、私は後悔した。

今シーズン、いや、もうここ数年、フィギュアを見てきていなかったことを。

姉妹そろってクラシックバレエを習っていた我が家は、フィギュアが好きで、グランプリシリーズ、世界選手権、四大陸選手権、全日本選手権、そして五輪、日本選手の出る試合は見られるだけ見ていた。

正確には、母・妹・私の3人がテレビにかぶりつくようにして見ていて、ニュースが見たい父は「ニュースは情報がわかばいいからワンセグでいいでしょ!」と携帯画面に追いやられるという、ああ4人家族の男性一人は辛いよパパごめん。

とにかく「冬=フィギュア」だった。私はジャンプの種類の見分けはアクセルしか自信がなかったけれど、妹はかなり正確に見分けられるほどになっていた。


母はフィリップ・キャンデロロが長野オリンピック滑った「ダルタニアン」と、ミッシェル・クワンの滑りが好きだといつも話すので、かなり小さな頃から見ていたのだと思うのだが、私の記憶に残っているのはトリノオリンピックあたりから。荒川静香がいて、村主章枝がいて、恩田美栄、安藤美姫、中野友加里もいた。男子は高橋大輔と織田信成(高橋も織田も関西大学の所属で、通っていた関大附属の中学でもらったクリアファイルには二人が載っていた)。解説は八木沼純子、本田武史。

世界の選手は、イリーナ・スルツカヤ、サーシャ・コーエン、カロリーナ・コストなー。男子ではブライアン・ジュベール、ステファン・ランビエール(引退後は振付師、さらに宇野昌磨のコーチもしていた)、そして「帝王」といわれたエフゲニー・プルシェンコ。

そうして2005年、彗星のごとく登場したのが——実際はジュニアで活躍していた期待の実力者だったが、テレビを通してしかシニアの試合しか見ていなかった私たちにとっては彗星のような存在だった——浅田真央だ。


シニア初参戦のグランプリシリーズで、いきなり中国杯2位。エリック・ボンパール杯で1位。そして、ファイナルでは女王・スルツカヤを破って優勝を果たした。

当時、15歳。まだ小柄な少女であることを忘れるほどのスピードある大胆なスケーティングと伸びやかな身体づかい。それまで跳べる女子が限られていた大業「トリプル・アクセル」を、簡単なのではと錯覚してしまうほど軽やかに決める“異次元”のジャンプ。シニアデビュー時はバテやすいフリープロフラムの後半も、笑顔でスピードを落とさず滑り切るスタミナ。そして、そのシーズンのフリープログラム「くるみわり人形」で見せる、等身大の笑顔。

のびのびと滑る彼女に多くの人が魅了され、「真央ちゃんスマイル」と世間が湧いた。我が家もご多聞に漏れず、真央ちゃんの天真爛漫な踊りに「かわいい〜!」と盛り上がった。お気に入りは、後半の怒涛のコンビネーションジャンプ直前、曲の変わり目で鈴を鳴らす振付。何より、ただただ滑っているのが楽しいというその様子が、「見ていてハッピーになるよね!」と話していた。

このシーズンは、トリノ五輪の年でもあった。
多くの人が、浅田真央の出場を望んだ。

しかし、それは叶わなかった。

出場制限に、年齢が足りていなかったからだ。

当時の国際スケート連盟(ISU)の定めは「五輪前年の6月30日までに15歳」。そこに、わずか87日足らなかった。

あまりの注目度に、ISUのチンクアンタ会長(当時)がグランプリファイナルの行われた代々木第一体育館で会見を開き、「規制は規制」として特例措置はないことを明言。一方で、「個人的には浅田をトリノで見たい」と語った。

その会見に、もう少し早く日本の協会が相談を上げていたら検討もあったのではないかと感じたことを覚えている。実際のところはわからない。けれど、私はどうも納得がいかなかった。グランプリシリーズなどではシニアで出場しているのだから、身体的な問題なども何もないだろうに、なぜ五輪は出られないのか。


とはいえ、はじめからわかっていたことでもある。当時の取材に浅田真央は「バンクーバーに出られればいい」と答えている。

トリノ五輪では荒川静香が優勝を果たし、「トゥーランドット」の調べにのせてイナバウアーで上半身を反らす姿が「アラバウワー」とよばれるようになった。私はその滑りに、フィギュアスケ―トとはジャンプを競うだけではないこと、その芸術性の高さを改めて見せてもらった。

この時は、誰もが思っていた。4年後、今度は浅田真央が五輪で金メダルだと——。


しかし、その4年の間に環境が変化する。

ジャンプの判定基準が変わり、エッジのイン・アウトがかなり厳しく見られるようになった。得意だったはずのジャンプで「正しいエッジではない」と判定を受ける浅田真央。4年の間に身長もグンと伸び、体重も変わり、バランスも変わっただろう。さらに練習環境の変化。そして、韓国選手キム・ヨナのシニアデビュー……。

2010年のバンクーバーオリンピックでは、自己ベストを更新したものの、銀メダルだった。

「銀メダルだった」。そう、私たちは欲張りになっていた。

銀なんて、十二分すぎるほどに素晴らしい結果のはず。けれど、グランプリシリーズ、世界選手権、四大陸選手権——優勝を重ねる彼女を見て、あのトリノの年の期待までのせて、優勝を、と。

だから、さらに次こそは、とまた当然のように思った。


2014年、ソチオリンピック。23歳。フィギュアスケートの世界ではベテランの域に入る年齢で、彼女自身「ソチオリンピックを自身のキャリアの集大成とする」と明言した。

確実にメダル争いには入るだろう。我が家は誰もそれを疑っていなかったし、きっと世間もそうだったと思う。

ところが、迎えたショートプログラム。ジャンプで転倒、コンビネーションジャンプも飛べず、16位。「ジャンプがすっぽ抜けてしまっている」という印象の演技に、何が起きたのか、我が家もニュースもざわついた。

演技後のインタビューに「何もわからない」と放心状態で答えている浅田真央を見て、こんなときでもメディアはコメントを求めるのかと、気の毒に思った記憶がある。

彼女は後に、このショートの日を「スケート人生で一番のどん底」と話している

つい先日出た記事によると、実はこのとき用意されていた日本代表選手の練習拠点であったリンクの状況が悪く、エッジが削れた状態になってしまっていたのだという。エッジに問題があれば、スケーティングもジャンプも満足にできないだろう。

けれど、彼女はそんな練習環境には一言も触れなかった。

体調が悪いのではないか。どこか故障があるのではないか。一夜で、立て直せるのだろうか——。

ソワソワして、翌日のフリーは、もはや真央ちゃんの滑走順しか意識の中になかった。

翌日、迎えたフリープログラム。

リンクに滑り出す浅田真央。会場には、こんなに日本人がいるんだと驚くほど「真央ちゃん!」「真央ならできる!」と応援の声が響いた。19歳の羽生結弦も、観客席から声を張り上げて「真央ちゃんがんばれ!」と叫んでいた。


彼女は、滑りはじめる前にポーズをとる時、大きく深呼吸をしながら、わずかに微笑みを見せた。

曲がかかるまでのわずかな静寂。見ているほうの心臓がどうにかなりそうなほどの緊張感。


そうして滑りだした冒頭のトリプル・アクセル。直後のコンビネーションジャンプ。

完璧だった。「ヨッシャ!!」とテレビを前に声を上げた。会場も歓声に湧いていた。

そのあとはもう、息を呑んで——いや、息をするのも忘れて、食い入るように見るしかなかった。

ピアノの鍵盤を叩く指に全体重を乗せた音のような、実感・実態のある重さある表現。ただただ軽やかに天真爛漫だった「くるみ割り人形」とは違う、スピード感もキレも伸びやかさもありながら重厚な演技。彼女は、勝負の次元を越えたところにいた。その滑りは演技曲「ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番」の中にあり、4分間、彼女が音楽の世界そのものだった。

全てのジャンプを成功させ、会心の演技を終えた彼女は、最後のポーズを取った途端、込み上げてくるように泣いた。安堵の涙のようにも見えた。

点数なんて、見ていなかった。
メダルなんて、どうでも良かった。

「良かったね」

見ていた私たちも、目に涙をためて、そう、喜んだ。


この日の滑りは、シーズン自己ベストを更新した。

今思うと、決して特別に“神がかった”わけではない。彼女の本来の滑りなのだと思う。

だけども、やはり涙なしには見られないし、最も記憶に残っているフィギュアスケートの演技だ。

実はソチ五輪はこの演技が記憶が強烈で、誰が優勝したのかを覚えていなかった。調べてみたら、優勝はアデリナ・ソトニコワ、2位がキム・ヨナ、3位がカロリーナ・コストナー。フリープログラム単独の得点も、浅田真央はソトニコワとキム・ヨナに次ぐ3位だったようだが、もう、浅田真央の滑りしか覚えていないのだ。


メディアも、周囲のフィギュア好きの友達も、誰もメダルを逃した彼女を責めなかった。失意のショートを責めなかった。

そして、彼女のフリーに涙した。

それはみんな、彼女のそれまでの物語を見てきたからなのではないだろうか。

彼女の物語を、その滑りに重ねてみていたからではないだろうか。

ミラノ・コルティナ五輪では17歳の中井亜美が銅メダルに輝いた。史上最年少のメダリストだ。

プレッシャーを感じさせない滑りを見せた後、彼女は人差し指を頬に当てて首を傾げた。「ん?」というアフレコが合うような、そこが五輪のリンクだということを忘れてしまうような仕草だった。

その無邪気な反応、トリプルアクセル、史上最年少という言葉……私は中井亜美をみながら、初めて「くるみ割り人形」の浅田真央を見た時の感覚を思い出していた。

そうすると、どうしても思ってしまう。

あの時、出場できていれば、「史上最年少メダル」は真央ちゃんのものだったのではないだろうか、と。

けれど、きっとそうではなかったから見られた演技がある。そうではなかったから、磨かれた表現もあるだろう。そうではなかったから、重ねられた物語があって、だから私は真央ちゃんを追ってフィギュアが好きになったのかもしれない。そしてもしトリノに出られていたら、ソチのあの伝説のフリーは生まれなかったかもしれない。

「もし」は、ない。

その後フュギュアスケートをあまり見なくなったのは、一人暮らしをするようになってテレビが自宅にないからというのが一つ。一緒に観戦して盛り上がる人がいないからというのが一つ。

それでも、羽生結弦と宇野昌磨は追っていたのだが、羽生が引退して以降は本当に見なくなってしまった。


フィギュア選手は基本、どんなに現役時代が長くてもオリンピックは3回。多くは2回。気がついたらどんどん選手が入れ替わっていく。

ニュースを見たがる父親を追いやってまであんなに必死に見ていたのに、ここ数年試合結果すらもチェックしなくなっていたのは、「物語」を知っている選手がいなくなったからなのだろうと、今回の五輪で改めて思った。

そうして、この数年も追いかけて見ていたら、きっと引退表明をして挑み銀メダルを手にした坂本花織の演技にもっと心震えたし、りくりゅうペアの金メダルにも涙していたのだろうなと思い、見ていなかったことを後悔したのだ。

ところで、年齢制限により期待されながら出場が叶わなかった選手が、今回のミラノ・コルティナでもいる。

島田麻央。

2008年10月30日生まれの彼女は、現在のISUの規定である「五輪前年の6月30日までに17歳」に3ヶ月足らない。だから、同学年の中井亜美が最年少メダルに輝く一方で、年齢制限に阻まれ出場できなかった。世界ジュニア三連覇、ジュニアグランプリファイナル三連覇、全日本ジュニア四連覇という圧倒的な強さであるにもかかわらず。

ISUが年齢制限を15歳から17歳に引き上げることを発表したのは、2022年。北京オリンピックの終了後だった。

前大会の時には、「次の時は自分も出られるかも」という環境だったのに。なんでこのタイミングなのか。なんで同学年の他選手は出場できるのか。きっと、本人が一番感じているに違いない。

けれど島田麻央は今シーズンの各試合に出場するにあたって、「いつもの全日本も緊張感はあるけど、どう違うのかは分からない。それを自分の五輪シーズン前に体験できたら」と語っている。

“なんで”と責め、憂うのではない。
次の五輪を見据えて、その目はもう前を向いている。

最近はフィギュアの試合もTVerやYouTube配信で見られるようになってきた。

次の4年はまた、フィギュアを注目して見てみようと思う。「物語」を一緒に辿れるように。

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    1992年生まれ、大阪出身。編集・ライター。学生時代にベトナムで日本語の先生を経験。食物アレルギー対応旅行の運営を経て、編集・ライターとなる。『全部を賭けない恋がはじまれば』が初の書籍編集。以降、ひろのぶと株式会社の書籍を担当。好きな本は『西の魔女が死んだ』(梨木香歩・著、新潮文庫)、好きな映画は『日日是好日』『プラダを着た悪魔』。忘れられないステージはシルヴィ・ギエムの『ボレロ』。