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映画『国宝』は、人生を余すことなく生ききろと伝えている——映画『国宝』レビュー

Naoko Kikuchi


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きらきらきら……

喜久雄には忘れられない光景がある。
少年のときに見た、辺り一面を白く覆う雪景色だ。
雪は、一切の音を消し去り、喜久雄の父・権五郎の上に降り落ちる。権五郎は後ろから敵に撃たれ、雪の中で死んでいった。

きらきらきら……

あの時の降りしきる雪が、覚悟を持って散った父の姿と重なって輝き、本来雪に音はないはずなのに、無念さと悲しさと美しさがきらきらと乾いた音になって、成長した喜久雄の脳裏に降り続ける。
喜久雄は、その実際の景色をもう一度見たいと思っている。


皆さん、映画『国宝』はきっともう見ましたよね?

私は3回見ました。3回見終えて最終的に最も印象に残ったのが、先に書いた映画の冒頭、雪が降るシーンです。私の耳には、今も金属同士がぶつかるようなキラキラと乾いた音が残っています。

それにしても『国宝』はすごい人気ですね。
任侠の世界に生まれ育った少年・喜久雄が組同士の抗争で父親を亡くし、上方歌舞伎の名家・花井半二郎に引き取られ、歌舞伎の世界に足を踏み入れます。そこで花井家の跡取り息子・俊介と出会い、ライバルとして切磋琢磨し合いながら、歌舞伎役者としての才能を開花させていくというこの物語。
公開から半年以上経った今でも上映され続け、昨年の12月末には興行収入が184.7億円を超え、観客動員数は1209.8万人を突破したそうです。私が3度目に鑑賞したのは10月中旬、平日のレイトショーでしたが、その時点で半分くらいの席が埋まっていました。

(C)吉田修一/朝日新聞出版 (C)2025映画「国宝」製作委員会(出典:映画.com

「良い映画とは、“気づかせてくれるもの”」

李相日監督は、社会問題を「一人ひとりの心の問題」として落とし込み、人間が葛藤する様を描いた作品を多く出しています。
2003年に公開された劇場デビュー作品『BORDER LINE』は、岡山の高校3年生の少年が母親を殺害し自転車で逃走、16日後に秋田県で逮捕されたという実際の事件をモチーフに、それぞれ家庭の悩みを抱える5人の登場人物がどう問題に向き合い行動するかを描いたロードムービー。実際に東京から青森、北海道・函館までロケーションを敢行したそうです。映画の雰囲気は大きく異なりますが2006年公開の『フラガール』も、1960年代に閉山に追い込まれた福島県いわき市炭鉱町の実話で、町の存続をかけ立ち上がった町民たちの奮闘をユーモアを混じえながら描いています。

『国宝』は、2010年公開の『悪人』、2016年公開の『怒り』に続く吉田修一小説の映画化3作目です。李監督は、先で挙げた『BORDER LINE』『フラガール』に比べ、『悪人』『怒り』では人間のより細かな心境の変化や多面性を描き出し、見る側に善とは何か、悪とは、正義とはと問いかけました。
『悪人』がイギリスで公開された際、日本語版フリーペーパー「英国ニュースダイジェスト」のインタビューで彼は、「良い映画とは“気づかせてくれるもの”」と答えています。「誰もが見過ごしているような何かを発見させてくれる映画には頭が下がります」と。そして、黒澤明、今村昌平に影響を受けたと語っています。黒澤監督については「上映中の2、3時間で見る者を完全に圧倒する力がある」とし、今村監督については「人間が持つさまざまな欲や業といった灰汁がスクリーンから臭いたつよう」と言っています。李監督は今村が創設した日本映画学校(現日本映画大学)に通っていました。

李監督が憧れた『さらば、わが愛/覇王別姫』

『国宝』は吉田修一原作、李相日監督タッグの集大成とも言われています。過去の2作品と比べて少し毛色が異なるように感じるのは、やはり市井の人でなく歌舞伎、任侠という特殊な世界を描いているからでしょうか。李監督は学生時代にチェン・カイコー監督の『さらば、わが愛/覇王別姫』(1993年)を見て衝撃を受け「こんな映画を撮ってみたい」と思い、それが歌舞伎をテーマに、人間の一代期を撮ることに繋がったと各インタビューで語っています。

『さらば、わが愛/覇王別姫』は、京劇の古典『覇王別姫』を演じる2人の京劇俳優の愛憎を描いた作品。1925年の日本軍による戦略から文化大革命の時代まで、50年にわたる中国の動乱の歴史を背景に、女形の程蝶衣が京劇に人生を捧げる様を圧倒的なスケールで見せています。程蝶衣を演じたのは香港の俳優レスリー・チャン。吉沢亮演じる喜久雄と同様、あまりの妖艶さに見入ってしまいます。

(C)1993 Tomson Films Co.,Ltd.(Hong Kong)(出典:映画.com

主人公の小豆子は、遊女の母に京劇の俳優養成所へ預けられます。細身でか弱い彼は他の子どもたちにいじめられ、最初は役者の訓練にも反発します。そんななか、石頭と呼ばれる少年だけが小豆子をかばい、いつも助けてくれました。快活で自分とは対照的な石頭に小豆子は次第に心を開き、互いに支え合って厳しい稽古にも耐えていきます。成長した小豆子は女形となって程蝶衣と名乗り、石頭は段小樓と名乗って共に京劇の古典「覇王別姫」を演じるスターとなりました。程蝶衣は覇王を演じる段小樓を秘かに好いていましたが、段小樓は菊仙という女性と結婚してしまいます。それを機に程蝶衣は心を病んでいき、やがて彼ら3人は激動の時代に翻弄されていく、というストーリーです。

身寄りのない少年が俳優養成所に預けられ、成長しスターの女形となる。望んでも得られぬもの、移り変わる時代。物語の至る所が似ています。少し役どころは異なりますが、段小樓は横浜流星演じる俊介、菊仙は高畑充希演じる春江にあたるでしょうか。

私は、威圧的な態度を取る日本軍を前にしても、態度を変えず、程蝶衣がいつもと同じように自分の踊りを見せるシーンが好きです。日本軍も敬意を払って彼の舞を鑑賞します。

喜久雄が付ける二重の仮面

先で私はこの映画を3回見たと書きましたが、最初に『国宝』を見たときは正直あまりピンときませんでした。歌舞伎の知識がないこと、任侠の世界を知らないことはもちろんですが、鑑賞3度目にして、喜久雄が本当は何を考えているのかが分からなかったからだと気づきました。

丹波屋・花井家一門の部屋子となった喜久雄は、歌舞伎役者としての人生が始まります。役者とは自分ではない別の人物を舞台の上で演じる職業です。しかも喜久雄が与えられたのは女形。男性だけが舞台に立つ歌舞伎の世界では、女性の役も男性が演じます。この女性役を専門に演じる役者、またはその演技様式を女形(おやま、おんながた)といいます。
女形は、男性が女性を演じることで生まれる独特な表現方法です。実際の女性とは異なる動きや、所作を極端に強調することで理想の女性像を表現してきました。

親も身寄りもなくなった喜久雄が、歌舞伎といういわば異世界に放り込まれて役者となり、さらに女形となったことで、二重の仮面を付けて生きていく。まだ10代の少年にとっては、日々芸を覚えることと生きることに必死で、素の自分というものを考える暇もなかったのではないでしょうか。また、喜久雄は素直で真っ直ぐではありますが、俊介と違い口数が多いわけでも特に表情豊かなわけでもありません。生まれた時から芸の世界で生きてきた俊介のように、自然に、器用に振る舞うことはできなかった。それが、私が喜久雄という人物をなかなかつかめなかった理由かもしれません。

(C)吉田修一/朝日新聞出版 (C)2025映画「国宝」製作委員会 (出典:映画.com

梨園の血はないが、任侠の血は流れている

それでも時々、喜久雄の人間性が見え隠れする場面があります。

一つは背中に彫ったミミズクの刺青。冒頭の長崎の場面で、喜久雄が刺青を入れたいと言う描写があります。任侠の人が入れる刺青には、カタギ社会との決別、覚悟を意味することが多いそうです。当時はまだ、その世界に生まれ育った少年の、憧れ程度だったのかもしれません。しかし父が殺された後やっと入れた刺青は、父の無念を晴らすため仇討ちを決意した、喜久雄の強い意志の表れです。
また、絵柄がミミズクであることについて俊介から理由を聞かれた際「ミミズクは人の恩を忘れない」と喜久雄は答えます。彼は受けた恩に報いる、義理堅い人物でもあるのでしょう。育ててくれた父への感謝だけでなく、身寄りがなくなった自分を引き取ってくれた半二郎への感謝の気持ちも感じられる場面です。

半二郎が五代目・花井白虎を、喜久雄が三代目・花井半二郎を襲名することとなり、その口上を行う前の晩、半二郎は喜久雄に言います。歌舞伎の世界において、親がいないのは首がないのと一緒だと。だからお前は芸で勝負するんだと。「極めた芸は刀や鉄砲より強い。あんたはあんたの芸で仇をとったるんや」。抗争で父を亡くした喜久雄にとって、この言葉がその後の喜久雄の確かな核となり、半二郎への恩も込めて芸を極めようという決意になったのかもしれません。

後半、自身が低迷している間も、師匠である半二郎の借金を支払っているという会話が出てきます。それも喜久雄の恩の厚さを表しているでしょう。

二つめは、ふとしたときに出る彼の凄みです。

あまり感情を口にしない喜久雄ですが、ときどき見ているこちらがぎょっとして緊張してしまうような狂気を自然に垣間見せます。

神社に手を合わせた際、娘の綾乃に「神さんに何をお願いしてたのか」を聞かれるシーンでは「神さんではなく悪魔と取引きしてたんや」と子ども相手に隠さず答えますし、襲名の口上で半二郎(白虎)が倒れ俊介の名前を呼んだ際、「死んじまえ」とつぶやきます(私にはそう聞こえました)。自身のスキャンダルから丹波屋を追われ、地方のどさ回りをする喜久雄に客が絡んだときも、躊躇せずに手を出します。これらは任侠の世界で生まれ育った喜久雄に自然と染み付いている行動で、無意識に出てしまうように見てとれます。

ただ一方で、喜久雄は愚直、不器用とも言えるかもしれません。歌舞伎の世界における“血”の重さを実感し、その血筋ではない自分は「神様」などと生ぬるいものではなく「悪魔と取引き」してでも一流の役者になりたい、ならなければという切実な願いにも見えます。

また、私は3度見ても、襲名の口上中に倒れ俊介の名を呼ぶ白虎に「死んじまえ」と言っているように聞こえましたが、「すんまへん、すんまへん」と謝り続けているように聞こえる方もいるようです。喜久雄の性格を考えると、後者の方が合っているかもしれませんね。遅れて読んだ小説でも後者でした。でも、「可愛さ余って憎さ百倍」というように、喜久雄のやり切れない感情が不意に出たようにも思えるのです。

梨園の血を継ぐ俊介と、任侠の血を継ぐ喜久雄。それぞれがその世界で自然に身に付いた行動が対照的に描かれます。しかし歌舞伎という言葉は、奇抜な格好でおかしなことをする「傾き者=かぶきもの」からきています。江戸時代、歌舞伎役者は士農工商の四民以下に属させられていました。歌舞伎も任侠もカタギではない世界。だからこそ狂気性を持った喜久雄が、梨園でものし上がっていけたのかもしれません。

血を超えた先に芸の到達点がある

白虎の死後、三代目・半二郎を継いだものの、背中の刺青と芸妓との間に子どもがいることが週刊誌にリークされたことで、スター役者を降ろされ低迷していた喜久雄。再起を狙い、同じ上方歌舞伎の吾妻千五郎の娘、彰子と関係を持ち梨園の血を得ようとします。しかしそのことが千五郎に知られ、歌舞伎界を追われてしまいます。その後4年間、彰子と共に地方へどさ周りをして舞踊を続けますが、あるとき喜久雄を本物の女性と勘違いした客と揉み合いになり、何もかも自暴自棄になってしまいます。

ビルの屋上で、うつろな目をした喜久雄が襦袢姿で踊ります。このシーンは手持ちカメラで撮影したそうです。夕暮れの中、太陽と共に消えてしまいそうな得たいの知れないものに見える喜久雄。ゆらゆらと踊る彼のすぐ近くをカメラが追う不思議な場面です。
そこへやってきた彰子に「どこ見てんのよ!」と言われ、目を覚ます喜久雄。「どこ見てたんやろう」と力なく笑います。ただただ上手くなりたいと練習に励んだ少年時代、「血ではなく芸で勝負しろ」と言われ気持ちを新たにするも、結局は血縁の重さを見せつけられた襲名口上、芸以外のことに騒ぎたてるマスコミ。自分でも本当はどうなりたいのか、どこへ向かえばいいのかが分からなくなっていたのでしょう。このときの喜久雄の頭上には、きらきらとした雪は降っていません。

出典:『国宝』本予告

しかし“血”を気にせず、芸にしがみついて、ただただ目の前の客に向けて踊り続けた4年の歳月が、歌舞伎に興味のない客に本物の女性と思わせ魅了するような役者にまで彼を高めていました。

程蝶衣がどんな客の前でも変わらぬ踊りを披露したように。

そんな折、喜久雄は、当代一の女形であり人間国宝の小野川万菊に呼ばれます。死の間際で万菊は、喜久雄を呼び寄せ、自身の扇子を渡してその場で踊ってみるように言います。おそらくこれは、人間国宝の継承を意味しているのでしょう。その後歌舞伎界に戻った喜久雄は、俊介と共に『曽根崎心中』を演じ、俊介の死後、人間国宝となります。

あの日の雪景色と芸に焦がれた人生

きらきらきら……

今日も喜久雄の脳裏には、乾いた音を立てて輝く雪が降っている。

人間国宝となった喜久雄が映画の最後で舞うのは、初めて万菊の舞台を見て感動した『鷺娘』です。
恋心に苦しむ娘の姿を、白鷺の姿になぞらえたこの作品は、雪が降りしきる中、白無垢姿の娘が雪のようにしんしんと積もる胸の思いを表現しています。

映画の冒頭で無邪気に笑っていた喜久雄。任侠という特殊な世界ながら、父と育ての母に可愛がられて育ったのでしょう。それがある日突然、一変します。和やかな新年会の場に別の組が押し入り、喜久雄の父・権五郎は敵に立ち向かおうとしたところを後ろから撃たれて死んでしまう。撃たれる直前、権五郎は影から自分を見る喜久雄に気づきます。そして「その目でよく見とけ」と喜久雄に言い残して雪の中に散っていきます。その覚悟を背負って倒れた父の姿に、喜久雄は悲しさと同時に美しさ、憧れを抱いたのではないでしょうか。

『鷺娘』の中盤、舞台は一転して明るくなり、艶やかな町娘姿となります。届かない思いにじれたり、逢瀬の嬉しさに恥じらったりと、恋する心を明るく踊ります。

花井家に引き取られ、初めて見た万菊の舞台。演目は『鷺娘』でした。父が死んだあの日のように雪が降りしきる中、この世の者とは思えない怪しくも美しい舞いを見て、自分もあの場に立ってみたい、あの場で父が見た景色と似た景色を見たいと思ったのでしょう。自分を部屋子にしてくれたうえ芸を仕込んでくれる半二郎には、芸を極めることで恩を返そうと子ども心に誓ったのかもしれません。

『鷺娘』の終盤、再び舞台が暗くなり曲調も変わります。恋のために我を失った娘は襦袢姿で恨みがましい様子を見せます。仏教では何かに執着すると成仏できないと考えられています。降りしきる雪の中、娘は地獄に堕ち、「責め苦」(罰)を受けるのです。それでも恋しい人への思いを消すことができない娘は、生きようと悶え、必死に羽ばたこうとしますが、ついに力尽きてしまいます。

何としてでも芸の世界に食らいつき離さない喜久雄の様は、恋しい人への思いを断ち切れない鷺娘のようです。娘は最後息絶えてしまいますが、万菊と同じ場に立ち、ついに求めていた景色を見ることができた喜久雄は、降りしきる雪とそれを照らす空(天井)を舞台から感慨深く見上げ、「きれいだな」とつぶやきます。

その後映画は、“あの日”のように一切の音が消えたところで終わります。

自分の人生を生ききろう

芸に焦がれ極めようとするも、常に“血”に翻弄され、葛藤してきた喜久雄。それでも彼は、お世話になった人へ恩を返すため、自分が見たいと思った景色を見るために、決めた道を信じて諦めません。俊介も白虎も、最後まで自分が歩いてきた道を歩き通そうとします。

『国宝』は歌舞伎、役者という特殊な世界を描いてはいますが、李監督は「自分の道を見つけ、人生を余すことなく生ききってほしい」ということを伝えているのではないでしょうか。そしてその根底にあるのは恩、人への感謝の気持ち。人は一人では生きられません。迷惑をかけたりかけられたり、でもどこかで支え合って生きています。そのことに感謝をしつつ、自分の人生を生きる。『国宝』はそんな人間の在り方を教えてくれているように思いました。

きっと皆の上にきらきらと白い雪は降り落ちていて、それは何色にでも染められる。「あなたはどう人生をいきますか?」と問うているのだと思います。


国宝
主演 吉沢亮
監督 李相日

国宝

国宝(上・下巻)
吉田修一|朝日文庫

#宣伝会議田中泰延クラス 『国宝』week!

本記事は、2025年に宣伝会議で開催したライティング講座【「お金を払ってでも読みたいことを、自分で書けばいい」と思える書く力の教室】の最終課題「映画『国宝』のレビュー記事」を、「街角のクリエイティブ」掲載にあたって編集したものです。「#宣伝会議田中泰延クラス 『国宝』week!」と題して、これから8名の受講生の記事を1日1名ずつ順番に公開していきます。

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    都内で猫と暮らす、しがない編集者です。のんびりしていますが、好奇心は旺盛です。「明るさは覚悟」がモットー。好きなものがたくさんありますが、しいていえば、食べること、寝ること、写真、映画、動物、ぼ〜っとすること。