愛人にはローダーが似合う。
おはこんばんちは。
広告探偵の上田豪です。
今週は月曜日から大阪に出張しておりまして、ラジオ大阪の仕事にひたすら勤しんでいたりする今日子の吾郎なわけなのですが、それでも街角diaryの原稿〆切は容赦無く今週もやってくるわけです。そしていま10月15日(木)の深夜1:00。ラジオ大阪が用意してくださった、俺なんかには分不相応なホテルの一室でこれを書き始めております。
というわけで、読後感についてはいつも通りかどうかわかりませんが暇つぶしにはなるかもしれません。
*****
というわけで、今日も例によって深夜だからね、とっとと本題入ります。
先週の「青い珊瑚礁」の再解釈
は、一部で眉を顰められつつも一部では絶賛の声もいただいてしまったので、先週に引き続き今日も考えてみましたよ。
「あの名曲を再解釈してみた⑧」
いつものアレです。暇つぶしにご覧ください

まずはこの曲をじっくりとお聴きください。
はい。みなさんご存じ。
テレサ・テンの名曲「愛人」。
1985年にリリースされたこの名曲。彼女の名曲といえば「つぐない」とか「時の流れに身をまかせ」と答える人が多いかと思うのだが、テレサ・テンの名曲といったら俺的にはもう昔から断トツでこの曲なのである。
そして世間的にこの曲はタイトルの通り「ひとりの女性が道ならぬ恋の相手を待ち続ける」歌だと思われている。
だがしかし、決してそんな曲ではないということに俺は昔から気づいてたわけなのよ。なんちゅうかね。
もちろん普通に聴けば、報われず許されない恋の歌だと思うだろう。なにしろ歌い手はあのテレサ・テンである。
そしてテレサ・ナインやテレサ・イレブンは存在するのだろうかとか、一体何人兄妹なんだろうとか誰しもが一度は疑問を抱いたこともあるだろう。
そんなことねえか。まあいいや。
さて。
俺はこの曲を聴くたびに、ついあるモノを思い浮かべてしまう。
イタリア車。それも古いマセラティだ。
ピンとこない方は、古いアルファロメオとか古いポルシェでもいい。とにかく旧車を思い浮かべておいてくれ。
それを頭の片隅に置きながらこの曲の歌詞を最初から順番に追ってみると、やっぱりどうも様子がおかしいことに気づくだろう。
これを読むみなさんよりひと足先に、俺はひとつの結論を導き出した。そりゃそうか。これを書いてるんだからあたりまえか。
この曲はズバリ言っていわゆる「愛人」について歌った曲ではないのではないか。だとしたらなんなのか。おのののか。
実は「故障ばかりする旧車を、それでも手放せないオーナーの歌」として読むと、この曲の歌詞が妙に全部つじつまが合ってしまうんですよ奥さん。
古いフェアレディ240Zに始まり、古いマセラティを3台、フィアットやシトロエン、プジョーやルノーなど、旧車に限らずややこしい車ばかりを乗り継いできた俺にはわかる。すぐにピンときたね。もうね、間違いない。確信。ちなみに「自信が確信に変わった」のは松坂大輔だし、「もうパンツは履かない」のは勝新な。
さて。そんなわけでいまからその仮説をひとつひとつ丁寧に紐解いていこうと思う。
*****
それでは順を追って歌詞を見ていくとする。

出だしの一節からしてすでに旧車オーナーそのものではないか。
「あなたが好きだから」。そりゃそうだ。だって好きじゃなかったらこんなややこしくて面倒臭いクルマになんて乗らない。
エンジンをかけるだけでもそれなりの儀式が必要だったりする。
クランキングの時間。チョークを戻すタイミング。暖機運転。オイルは漏れる。電装系は怪しい。ステアリングをフルロックしてはいけない。据え切りなんてもってのほか。雨漏りする。水溜りや踏切の走行には気を遣う。燃費は激しく悪い。……etc。
現代のクルマしか乗ったことがない人や、クルマを単なる移動のための道具と捉えている人からしたら、「買い替えたほうがいいんじゃない?」という話になる。
しかし、ノスタルジックヒーローやオールドタイマーといった旧車雑誌を愛読しているような旧車を愛するオーナーは違う。クルマとしての利便性や経済性なんてそもそも考えていない。
「好きだからいいんだよ」、そのひとことで困難な局面をすべてを乗り切っていくのだ。男前。

これも実に旧車らしい一節である。
「街を歩けなくても」とは、つまり突然のアクシデントで愛車が走れなくなった状況を指す。
せっかくの休日にドライブを楽しむために愛車を出したのに、近所のガソリンスタンドまで行ったところで止まる。仕方がないのでJAFを呼ぶが、案の定JAFの手にも負えず、主治医と呼ぶかかりつけの自動車整備工場まで運ぶためのローダーを手配することになる。
結局その日は愛車と一緒にドライブへ出かけるどころか、街を走ることすらできなかった。
それでも旧車を愛するオーナーは怒ることもなく淡々と言う。
「まあ、たまにはこういうこともあるよ」
といいつつ、毎回のようにこういうことがあることには気づいていないフリすらする。これを愛と呼ばずしてなんと呼ぶのかを俺は知らない。

「この部屋」とは当然ガレージや駐車場のことを指す。
オーナーは仕事から帰ると毎晩のようにガレージを覗き込む。そこには愛する車がいる。その姿を見ることができる、それだけでいい。別に遠出なんかしなくたっていい。ただ、そこにいてくれればいいのだ。
だがしかし、たまにいない。
なぜならそんな時は間違いなく主治医の元へ入院しているからだ。

ここはもう、旧車を愛するオーナーの悲哀そのものだ。
待っている。ひたすら待っている。あみんが歌うくらい待っている。なにを待っているのか。それは修理工場からの電話。
「部品がまだ届いていません」
「もう少しかかります」
「ちょっと気になる別のところも見ておきます」
……待つ。退院予定の日が伸びてもひたすら待つ。
そしてオーナーに送られてきた工場からの写真。取り替えたパーツの写真だ。その写真を眺めながら、愛する車が戻ってくる日を想像してひたすら待ち続けるのだ。これを愛と呼ばずしてなんと呼ぶのかを俺は知らない。(2回目)

完全に愛車のメンテナンスの話である。
こまめな洗車。こまめなワックス。こまめなウインドーコーティング。こまめなオイル交換。こまめな点検整備。こまめな車内清掃。いざという時のために古いパーツの在庫をネットで検索したり海外サイトをチェックしたり。日頃からどれだけ尽くしていても、それでもやっぱり旧車は壊れる時は壊れる。
そのたびに修理に出す。また壊れる。姿を見られない日々に、乗れない日々に泣きぬれる。
報われることなど期待すらせずそれでも愛する。なぜか。好きだから。それしかない。そうとしか言えない。これを愛と呼ばずしてなんと呼ぶのかを俺は知らない。(3回目)

旧車にとって「時」はかなり危険な存在だ。
普通の恋愛ならば、時間が二人の関係を育てることもある。
しかし旧車の場合、時間の経過はむしろゴムパーツを劣化させ、ゴムホースを硬化させ、それが原因で電装部品のトラブルや、オイルやガソリン、冷却水などの液漏れトラブルが起こったりする。
「時がふたりを離さぬように」とは「壊れたら直せばいいだけじゃん機械なんだから」と、愛車を壊していく時間の経過に諦めることのないオーナーの姿を表しているのだ。

男にとってクルマは女性と同じだ。
それは俺がクルマメーカーの仕事に長く関わっている間、クルマの撮影をディレクションする際にその視点は不可欠だった。
愛車の前にしゃがみ込んでボディのプレスラインを見る。フェンダーの膨らみを見る。ボンネットを開けエンジンを眺める。曲線を確かめるようにそっとボディを撫でる。ドライバーズシートに座り、ステアリングを抱きしめる。他人から見ればちょっとおかしな人に見えるかもしれない。しかしクルマを愛する本人にとっては普通の愛情表現でしかないのだ。

クルマの「胸」とは心臓がある場所、つまりエンジンルームである。
愛車の胸元にあるエンジン。オーナーは毎日のようにそこに手を入れて何かを確認しているし、谷村新司は歌いながら小川知子の胸元に手を入れて何を確かめていたのだろうか
ってのは脱線が過ぎたかもしれない。
エンジンルームを除いての儀式を終えて「うん、大丈夫そうだな」と言ってボンネットを閉める。
ところが翌朝、何故かエンジンがかからない。
それでも、まったく大丈夫じゃなかったその状況をどこかで楽しんでいる自分がいることに気づいたりする。どうってことねえよ。

この一節はわかりやすい。
オーナーがこのクルマに出逢った時には、もうそのクルマは何十年も生きてきていた。
新車では決して出逢うことができなかった愛するクルマ。しかし、それでいいのだ。できることなら新車で出逢いたかったといったところで決して叶うことはないのだ。ただ出逢えたのが遅かったというだけで、それでも出逢って好きになることに変わりはないのだ。

クルマは喋らない。
ただ例外はある。ドライバーとあからさまに会話をする車が存在した。ナイト2000。この車は「おはようマイケル」と普通に朝の挨拶をする。(各自調査)
さて。
旧車オーナーは喋らないはずの車と会話ができたりする。彼らはエンジン音を聞くことで愛車と対話をしたりするのだ。
「今日ちょっと調子悪いな」「アイドリングがいつもと違う」「この音はちょっとヤバい」……etc
クルマは何も言わない。しかし、オーナーには聞こえているしわかっている。


ある朝、愛車が動かなくなる。
主治医に連絡する。やがてレッカー車がやってくる。そして愛車はローダーに載せられる。その様をオーナーはただ立って見ている。エンジンのかからない愛車がゆっくりと運ばれていく。
「私は見送る」とは、つまり、そういうことなのだ。
恋人との別れなどではない。故障した愛車を修理工場へ送り出すオーナーの姿だったのである。

旧車オーナーにとって「明日」を希望と言い切ることはできない。
いつまた新しい故障が発生するかわからないからだ。
今日は直った。でも明日はわからない。だから普段からエンジンをかける時、そしてエンジンを切る時に祈る。
「明日も壊れませんように」
いや、もう少し正確に言えば「明日もまた何かしら壊れるかもしれないけれど、致命傷ではありませんように」って感じか。

愛車は今日も主治医の工場にいる。
だからオーナーは今日も愛するクルマには会えないのだ。いつか直ってまた会えることすら本当は怪しいかもしれない。パーツが手に入らなければ二度と会えなくなる、その可能性すらあるのだ。
だからなおさら恋しい。
毎日、写真を見る。旧車専門誌を見る。中古パーツのサイトを見る。YouTubeで同じ車種のエンジン音を聴く。奇跡的に同じクルマを街で見かけたらしばらく目で追ってしまう。プラモデルやラジコンがあったら買ってしまうかもしれない。
そして思う。
「早く帰ってこないかなー」これはもはや遠距離恋愛である。ただし、恋愛の相手は工場のリフトに載せられたまま、壊れたパーツの交換を待っているクルマである。

そして愛車はようやく帰ってくる。
主治医から愛車を受け取る。ガレージに入れ、祈りの儀式とともにエンジンを止める。マフラーから響いていた音が静かになる。クルマから降りたオーナーは、久しぶりに会った愛車をしばらく眺める。満足すると「また明日」と声をかけてシャッターを閉める。
今日も一緒にいられた。ただそれだけでいい。
*****
ところが、この曲の歌詞は最後にまた同じところへ戻ってくる。
離れて。恋しくて。会いたくて。そして最後には、また一緒に暮らしたい。この繰り返しである。
これはつまり、
故障する。
修理する。
帰ってくる。
乗る。
また故障する。
という旧車オーナーの人生そのものなのだ。
こんな繰り返しが続いたら、普通の人なら流石に「このクルマはもう手放そう」と思うだろう。
しかし、旧車を愛するオーナーはそう簡単にはそれを手放さない。
なぜなら、そういうクルマが好きだから。
だから今日も、修理工場から帰ってくる日を待っている。いつか帰ってくるのを待っている。帰ってくる希望がある限り待っている。
旧車という名の「愛人」を待ち続けている。
どうでもいいか。どうでもいいな。
上田 豪 広告・デザイン/乗り過ごし/晩酌/クリエイティブ
1969年東京生まれ フリーランスのアートディレクター/クリエイティブディレクター/ ひろのぶと株式会社 アートディレクター/中学硬式野球チーム代表/Missmystop





