坂本龍一の『KAGAMI+』へ行ってきた。

坂本龍一がピアノ演奏する様子を、複合現実(MR)の空間に3次元的に立ち上げる作品《KAGAMI》。
彼自身が最後の4年間を費やしてTodd Eckert率いるTin Drum(プロデュース・ビジュアル制作)と共に制作したプロジェクトだ。
初演は2023年、ニューヨーク。以降、ロンドン、マンチェスター、台北、シンガポール、メルボルン、イタリア、香港など世界各地で上演され、今年日本に初上陸した。
日本初上陸が東京ではなく大阪で、グラングリーン大阪にできた新しい施設「VS.」ということもあって、6月の上演開始からずっと行ってみたいとは思っていたのだけど、なかなかタイミングがなく、やっと閉幕3日前の10月10日(土)に体験してきたのだ。

上演30分の体験版であるBLUEと、60分のREDの2コースがあり、私より先に体験していた父の話を聞いて思い切ってREDに行くことにした。

眼鏡族の私は、入口で眼鏡の度数測定を受けるよう案内された。特殊なヘッドセットをかけて体験する《KAGAMI》。眼鏡on眼鏡ができる構造ではなく、そのヘッドセットを適切な度数に調整して渡してもらえる。
ただし、乱視や左右の差の矯正までは難しそうなので、今後また国内で上演されることがあれば、コンタクトで行くほうがおすすめです。
会場に入ると、中央に曼荼羅のような模様のラインが敷かれ、そこを囲うようにグルっとイスが並ぶ。自由席でどこに座ってもいい。

上演アナウンスでは、専用眼鏡の注意点や、プログラムの説明が流れる。その中で、自由に立ち歩いて観てもいいし、そのまま椅子に座って観てもいいとあった。
アナウンスが終わると会場の照明が落ち、先程曼荼羅模様があったあたりにフッとグランドピアノとそのピアノを弾く坂本龍一が現れた。
3Dで。指の動き、髪の揺れ、表情まで。
本人演奏で収録されたピアノが流れる。目の前の坂本龍一の動きは、そのピアノ音としっかり揃っていて、“彼が演奏して”いる。
その不思議な空間に、体験者はみんな少し首を振ってみたり、立ち上がってみたり。そうして、浮かぶ映像が追いかけてこない、つまり自分の動きに合わせた見え方をすることを把握する。
会場全体に、近づいてみたい、だけど他の人の視界を遮るのははばかられるし……というソワソワした空気にが流れはじめた。
1曲目の演奏が終わったあたりで、スっと勇気ある1人が歩き始めた。
彼が目の前を横切り……いや、驚いた。
人が横切ったはずなのに、ずっと坂本龍一とピアノがクリアに、目の前に、現実的に見えているのだ。
横切ったはずの彼は、ほとんど見えない。影だった。『千と千尋の神隠し』に出てくる影のような存在だった。
それから、多くの人——影が、ゆっくりと坂本龍一に近づいて行った。ある影は近くで床に座り込んで、ある影はピアノを上から覗き込んで……。
それはまるで、坂本龍一の音楽に引き寄せられて集まる魂のようだった。
彼岸と此岸の境界が溶けはじめる。
私も近づいてみた。指の動きと鍵盤の動きとピアノの音が、しっかりあっていた。坂本龍一の表情は演奏しながら揺れていた。グランドピアノはYAMAHAだった。ピアノを覗き込むと弦とハンマーの動きもしっかり見えた。
こんなに近くで坂本龍一の演奏を覗き込むなんて、普通できない体験で、不思議な感覚だった。
だけど、そこにある坂本龍一の背中もグランドピアノも、手を伸ばしても触れられない。スっと通り抜ける。
“影”よりもリアルにそこに“いる”のに。“影”の人たちには気をつけないとぶつかってしまうのに。
私は現実なのだろうか。この時間は現実なのだろうか。
そのまま、中央にとどまる影も多かったが、私は最初の椅子に戻ることにした。
坂本龍一の演奏を、「SS席一列目中央」で見ているような体験。彼がそこで演奏しているのを、同じステージに上がって近づいてみるよりも、SS席でゆったり聴きたいと感じた。
時間が経つごとに、3Dのピアノと坂本龍一がよりリアルに感じられて、溶けていく。きっと、それは音楽があるからなのだろうと思った。
そのうち、生演奏のライブでするように、目を閉じて音だけに聴き入るようにもなった。
MR技術があっての上演なのに、そうして音だけを聴きたくなるぐらいに、そこにいた。
坂本龍一の声で、次の曲が最後の一曲だと告げられる。ライブのマイクパフォーマンスと同じ呼吸感で。
そして「BB」が演奏され——演奏が終わると、坂本龍一もグランドピアノも、フワッと光の粒となり消えていった。
そこには、“影”だった私たちだけが残されて。ついさっきまでリアルに“いた”坂本龍一が幻で、“影”だった私たちだけがリアルに戻る。

アンコールも、拍手もない。フッと消えた存在に、夢から醒めたばかりのような不思議な余韻が漂う。
そうして、改めて思い出す。
「ああ、坂本龍一は、もうこの世にはいないんだ」
制作時に坂本龍一が何を思っていたのか、なぜ『KAGAMI』というタイトルにしたのかは、わからない。けれど、どこかでこう感じた。
この作品は、坂本龍一が亡くなったことで世界が完成したのだと。彼はそうなることを知っていたのではないかと。
はじまるまでは何が起こるのかわからなかったただの広い空間は、坂本龍一の音楽を送る礼拝堂だった。
会場の壁には、来場者からのメッセージが、こぼれ落ちそうなほどに貼られていた。

廣瀬 翼
レポート / インタビュー
1992年生まれ、大阪出身。編集・ライター。学生時代にベトナムで日本語の先生を経験。食物アレルギー対応旅行の運営を経て、編集・ライターとなる。『全部を賭けない恋がはじまれば』が初の書籍編集。以降、ひろのぶと株式会社の書籍を担当。好きな本は『西の魔女が死んだ』(梨木香歩・著、新潮文庫)、好きな映画は『日日是好日』『プラダを着た悪魔』。忘れられないステージはシルヴィ・ギエムの『ボレロ』。





