高2を目前にした、春。
練習後、8畳足らずの部室に所狭しと座る選手10数名は、新しい監督の話題で持ち切りだった。
当時、野球部の運営に関しては監督の他に顧問という役職があった。顧問の先生は野球経験こそなかったが、相手チームとの試合の渉外や遠征の調整など、監督のサポート役として共に部の管理をしてくれていた。
キャプテンが顧問から聞いた話によれば、新監督は隣町の高校から異動してくるということと、30代半ばであること以外、ほとんど教えてくれなかったらしい。
それまでの監督は別の部活を見なくてはならなくなったらしく、急遽入れ替わるような形になった。
ナインは皆、新しい監督がどんな人なのか、微かな不安を抱いていた。
4月に入り、グラウンドの隅にポツポツと雑草が生え始めた。
日中の退屈な授業が終わると、夕暮れの教室からは一斉に人がいなくなる。
生徒の中には部活に属さない帰宅部もいて、これからアルバイトに向かう者や、街のどこかへ立ち寄る話をしている姿を見て、少し羨ましいと思った。
幸いグラウンドは校舎脇にあったので、部室は歩いてすぐのところにある。
今日から新しい監督さんが来るため、キャプテンの指示で早めに集合した。
急いで練習用のユニフォームに着替え、少しドキドキしながら外に出ると、遠くから顧問と共に歩いてくる監督さんの姿が見えた。
「えー、新しくウチの野球部監督になっていただく、フクダ監督だ」
顧問がそう言い、僕たちは帽子を取って挨拶をした。
監督も帽子を取ると優しそうな笑みを浮かべ、「今日からよろしく」とだけ言った。
それから数日間、監督は僕たちに何かを指示することはなかった。
いつも集合時間よりも前にグラウンドにいて小さな雑草を抜いたり、凹んだ部分に土を盛って整地したりしながら、僕たちの練習を見ていた。
てっきり僕たちも初日から厳しい練習を課されると思っていたので、数日間、何も言わない監督を不思議に感じた。
数日が経過すると、監督から初めての集合がかかり、軽いシートノックをやろうと言われた。
選手はそれを受け、それぞれのポジションに駆け足で向かい、準備を始める。
3年生のエースがキャッチャーとキャッチボールを始めると、監督は「肩が温まったら全力で投げていい」と指示を出した。
監督がバットケースから使い込まれたノックバットを出すと、皆が少し緊張した。
エースはマウンドに上がり、初球から速いストレートを投げ込んだ瞬間、監督は片手でそのボールを外野に打ち返した。
みんなが驚き、一瞬選手の動きが止まった。
シートノックはピッチャーが投げキャッチャーが捕球した直後、監督やコーチはすぐさま手に持っているボールでノックをするのが一般的だ。
高校生が投げる渾身の速球を、ノックバットという普通よりも細いバットで守備位置に的確に打ち返すことは、そう簡単にできることではない。
その後も監督は1球もミスをすることなく、面白いほど簡単にボールを打ち返した。
練習が終わり部室に戻ると、みな口を揃えてシートノックの話題で盛り上がった。
翌日も、その次の日も、監督は集合時間より早くグラウンドいて、球場の隅々までメンテナンスをしていた。
その姿を見て、選手の何人かが「俺たちも早く集まって整備しよう」と言い出した。
誰も強制はしなかったが、日に日に集まる選手は増えていった。
練習メニューは様々で、日によっては終始走るだけのトレーニングもあった。
監督は選手と同じメニューをこなし、なんなら選手よりも速く走った。
監督が不在の日、選手たちは顧問の所に駆け寄り、一体監督は何者なのかを尋ねた。
顧問は返答に困った表情をし、
「監督からは、あまり言わないでくれと言われている」
と言った。
インターネットもない時代、監督が誰なのかを調べる術はなかったが、顧問の表情を見た時、きっとすごい人なのだろうと感じた。
新しい監督になって変わったことといえば、練習試合の対戦相手が強豪ばかりになったこと。
当時僕らのチームは弱くもなかったが、決して強くもなかった。
今までは市内にある高校との試合が中心だったが、県外の高校も遠征で試合に来るようになった。
夏の大会に入ると、僕たちは予想以上に健闘した。
何回戦目かで当たった強豪校にあえなく敗北したが、日々の練習によって少しずつ自信が付き、堂々と試合ができた。
3年生にとって最後の夏が終わると、僕たち2年生が最上級生になった。
監督は様々な野球の考え方、練習法、技術を教えてくれた。
高校野球の監督には、全国に名将と呼ばれる人が大勢いるが、高校生と一緒に練習し、実践してくれる監督はどれだけいるだろうか。
言葉よりも実行で教えてくれた監督のことを選手全員が尊敬していたし、何より自身のキャリアを明かすことを嫌うような気配があった。
野球以外にも監督から学ぶべきことはたくさんあり、毎日夢中で練習をした。
その年の冬。
白い息を吐きながらグラウンドに集まると、監督が来年の春頃に、やんごとなき事情で監督を降りることになったと報告を受けた。
その理由はここでは書かないが、僕たちは監督と過ごせる時間が消えてしまうことが、とてもつらかった。
最後の夏の大会は、監督から教わったこと全てを試合にぶつけ、全員が全力でプレーした。
僕たちの代も予選で負けてしまったが、毎日ユニフォームが真っ黒になるまで野球を追いかけた。
引退後になって顧問はようやく重い口を開き、監督がどんな人なのか、そっと教えてくれた。
* * *
それから30年が経過し、久しぶりにキャプテンから一通の連絡が届いた。
当時のマネージャーが今でも監督に年賀状を送り続けていたことがきっかけになり、監督と会えることになった。
監督が現役球児だった頃の情報を探し求め、当時刊行されていたアサヒグラフから、ようやく1枚の写真を見つけることができた。
1975年の夏、甲子園。
優勝旗を掲げる彼の姿は静かに、強く、輝いていた。
僕が今も野球に関われているのは、静かな教えを貫いた恩師の存在があったからにほかならない。

田所敦嗣さんの著書
スローシャッター
田所敦嗣|ひろのぶと株式会社
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田所敦嗣
エッセイ
千葉県生まれ。水産系商社に勤務。エッセイスト。著書 『スローシャッター』(ひろのぶと株式会社)で、SNS本大賞「エッセイ部門」受賞(2023年)。フライ(釣り)、写真、野球とソフトボールが趣味。人前で声が通らないのがコンプレックス。






