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ブンタウの三姉妹【連載】田所敦嗣の出張報告書<第4回>

田所敦嗣


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初めて仕事をするとき、あなたは「切り札」を持っているだろうか。

切り札は必ずしも、ポケットに隠された最後のカードとは限らない。

ある年の1月。
空気まで凍る様な日本を出発し、ベトナム・ホーチミンにあるタンソンニャット空港に降り立つと、たった数時間前まで肌身離さず着ていたダウンジャケットが、一瞬で邪魔だと思うようになった。

僅かな距離を歩くだけでアスファルトからの熱と湿気が全身に跳ね返り、僕はたまらず集合場所である近くの喫茶店へ小走りで駆け込んだ。

待ち合わせていたチャン(Trần)さんと合流し手短に打合せをすると、さきほど頼んだアイスコーヒーは、半分くらいが水になっていた。

ベトナム南部にあるブンタウ(Vũng Tàu)という街は、ホーチミンから100キロほど南東にあり、リゾート地として有名だが、農業が盛んで、水産資源も豊富な土地だ。

日本だと車で100キロという距離はさほど遠くない様に感じるが、当時は高速道路も繋がっておらず、道はいつも渋滞していて、ひどい時は5時間近く掛かった。

それでも、ぎゅうぎゅうに密集する店と店の間隔が少しずつ離れていき、グラデーションの様に田園に移り変わっていく景色を飽きずに見ていた。

今回訪ねる工場のことはチャンさんから説明を受けていたのだけど、歴史のある工場だという。
ただ、築年数とは関係なく清潔で、細かな部分まで管理が行き届いているということで、業界でも評判の工場らしい。

日本に限らず、世界の食品工場も魚や野菜、肉などの原料を仕入れ、同じような加工をしているはずなのに、そこを運営する人の管理や技術によって、どれほどでも品質に違いが出てしまう。

過去には、基準の厳しい日本向けには到底出せないような工場も散々見てきたし、一度きりの視察で終わってしまった場所もたくさんあった。

移動の間にチャンさんと様々な話をし、その工場は三姉妹が運営をしているということを、夕暮れのブンタウに到着する頃に聞いた。

翌朝。
チャンさんと共に工場を訪ねた。昨日の話の通り外観は決して新しくは見えない工場だったが、オフィスは隅から隅まで清掃が行き届いていた。
三姉妹の内の長女が出迎えてくれ、その日は彼女と丸一日かけて場内を視察したのだが、経験豊富で惚れ惚れするような手さばきのワーカーさん達の技術を、僕はすっかり気に入ってしまった。

その夜はチャンさんと三姉妹、僕を含めた5人で食事をした。
ブンタウ市内で最近できたという人気の海鮮料理屋に招待され、当時のベトナムでは珍しく冷えたビールで乾杯をした。

三姉妹は全員明るく、よく話をした。
今、日本はどんな様子なのか、政治はどうなのか、食べ物は美味しいのか、ベトナムと日本の生活はどんな違いがあるのかなど質問攻めにあったが、よくあるような社交辞令的ではない会話はとても楽しかった。

チャンさんも交じりテーブルは一層盛り上がったのだけど、1つだけ気になることがあった。
ビールで乾杯する度、まだ飲み干していないのに、次から次へと卓上に冷えた缶ビールが運ばれてくるのだ。

今の日本ではほとんど見なくなってしまったが、昔の日本の居酒屋ではビールメーカーから雇われた女性がいて、キリンビールならキリンの子が、サッポロならサッポロの子がお客さんに宣伝をしながらお酒を勧めていた。
もちろんそれはメーカーがしのぎを削って売上を上げる為でもあるが、メーカーから出される新作の宣伝でもあった。

最初は次々と運ばれる缶ビールもそのビールガール達が押し売る様に運んでいるのかと思っていたのだが、どうも三姉妹がその量をオーダーしているようで、その彼女たちは全く酔う素振りすら見せずに乾杯を続けた。

そして、具体的に工場のどこが良かったのかとか、不満な点はあったのかなど、矢継ぎ早に訊ねてきた。

こちらもアジアの国々で似たような無限乾杯の経験があるとはいえ、経営者が3名いて、まして三姉妹からこんなにお酒の洗礼を受けたのは、後にも先にもこれが初めてだったし、彼女たちも相応に吞んではいるはずなのだが、その目はとても真剣だった。

そして、あなたは私たちとどんな商売をしたいのかを訊ねてきた。

どんな商売……と言われ言葉に窮したが、しばらく考えた後、

「どれだけ商売を増やせるかは未知数だけど、少しでも長く続けたい」

と、短く伝えた。

すると彼女たちは僕の目を見て、こう言った。

「私たちは先日急逝した父からこの工場を受け継ぎましたが、お恥ずかしながらこの業界のことや、何が正解か不正解なのかもわかりません。だから、ここに来てくれるお客さんと話し、今後どうするのかの判断をするしか方法を持たないのです」

さきほどから隣で少しずつ頭が傾き、随分と酔っ払ったチャンさんがなんとか通訳してくれた。
気が付けば僕たちのテーブルの下は数十本の空き缶が積み上げられていた。

そんな出会いからスタートし、結果的にはその工場とは10年近くも商売が続いた。
そしてその初日以降、ビール祭りの様な酒宴になることは一度もなかった。

様々な時代や環境の変化によって、彼女たちとの商売はほとんど無くなって久しいが、僕は彼女たちの朴訥な切り札と信念を、今でも大切に感じている。


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田所敦嗣さんの著書

スローシャッター

スローシャッター
田所敦嗣|ひろのぶと株式会社

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    千葉県生まれ。水産系商社に勤務。エッセイスト。著書 『スローシャッター』(ひろのぶと株式会社)で、SNS本大賞「エッセイ部門」受賞(2023年)。フライ(釣り)、写真、野球とソフトボールが趣味。人前で声が通らないのがコンプレックス。