イヌを飼った。
前の相棒との別れから、10年が経過した。
いつも行動を共にしていた友を失うというのは、言葉にはできない悲しみがある。
今回久しぶりに迎え入れたのは、僕のリカバリーにそれだけの年数が必要だったのではなく、今の生活パターンを総入れ替えしなくてはならなかったからだ。
エイヤとなれば準備は早いのだが、なかなか踏ん切りがつかなかった。
朝晩イヌと共に散歩をしていると、道端でよく声を掛けられる。
「以前、私も同じ犬種を飼っていたんです」と、目を細くして話しかけてくれる人もいる。
飼っていた方の思い出話を聞くのは好きだし、その間は隣で座っている我がイヌを差し出すようにして、いくらでも撫でてもらっている。
過去のものとなってしまった日々を、SNSに上げる人もいる。
そのタイムラインを見て、安易に声を掛けられるような立場には無いが、上がってくる写真を眺めては、その方とイヌが過ごしたであろう日々を想像することはできる。
知り合いにも相棒を失ったショックで仕事を辞めてしまった人までいるので、イヌという生き物は何千年も人と寄り添い、暮らしてきたんだろうと実感する。
* * *
僕が子供のころは、今よりもっと冒険や探検のテレビ番組が多かった。
それに関係する雑誌や本も多く、最果ての地を旅する冒険家や、辺境の地で生活する人々を特集した記事も好んで見ていたが、その中にはいつもイヌがいた。
そうした場所で暮らす、言わばペットではないイヌは、大体は人が生きるために必要な仕事を任されていて、無くてはならない存在になっている。
犬ぞりを引いたり、番犬だったり、危険を察知して吠えたり、狩猟や牧羊犬だったり、古い文献によれば、人間が飢餓の危機に晒されたときの食糧としても考えられていた。
もちろん冒険家も辺境の住人も我がイヌを可愛がっていると思うが、接し方がペットとは大きく違う気がした。
そしていつしか僕はその独特な距離感に、憧れを抱いていた。
過去を含む我がイヌたちへは代々、おすわりと伏せは教えるが、“お手”は教えたことが無い。
“お手”は日常に必要な躾けではないし、芸になってしまう気がした。
狩猟が得意なDNAを持つ犬種には、テニスボールなどの仮の獲物を投げて持ってこさせたりするし、釣った魚を咥えて、クーラーボックスに入れてくれる相棒もいた。
決して生活には無くてはならない仕事ではないが、我がイヌに1つでも仕事を教えると、彼らとの暗黙の距離は必ず変化する。
飼い主に指示を受けて行動し、達成して褒められる。
この作業の繰り返しは双方にとって楽しく、対等でいられる1つの方法だと思う。
そんな彼らとの日々も、いつかは終わりの日を迎える。
葬儀で彼らが愛した遺品を添えて供養すると、家に遺るモノは何もなくなる。
「我がイヌたちの毛」以外は。
部屋中をこれでもかと掃除しても、十数年共に暮らしてきた「我がイヌの毛」はいたるところに散らばっていて、イヌを飼ったことのある方は、多少なりとも経験があると思う。
我がイヌがいなくなってから何年も経過したある日、20,000㎞近く離れた南米チリのプエルトバラス(Puerto Varas)で商談中、取引先のスーツに懐かしい我がイヌの毛が付いていた時は、笑いを堪えるのに必死だった。
ミネアポリスでイヤミっぽい相手と商談していた時も、彼の腕にどこからともなく我がイヌの毛が張り付いていたのを見て、少しだけいい気味だと思った。
ラン・チリ航空に乗り長時間のフライト中、手持ちのリュックに入れていた小さなポーチから数本出てきた時は、それを掌に乗せ握って寝た。
新調したスーツケースには「我がイヌの毛」など入る余地など毛頭無さそうだが、コペンハーゲンのホテルでケースを開いた時、何本かがどさくさに紛れて旅をしてきていた。
ノルウェー、ベトナム、タイやミャンマーでも、「我がイヌの毛」は僕と共に移動し、世界中に散りばめられる。
思えば過去も今も、我がイヌたちは僕にとって「無くてはならない仕事」をとっくに理解していて、いつもどこかで見ているのだろうと思うと、いつしかその寂しさは、違う方向へ紛れてくれた。
今この文章を考えている時も、我がイヌは僕の足元で寝ているが、彼ともこれから、長い旅になりそうだ。

トップ画像作品:田口ナツミ
田所敦嗣さんの著書

スローシャッター
田所敦嗣|ひろのぶと株式会社
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田所敦嗣
エッセイ
千葉県生まれ。水産系商社に勤務。エッセイスト。著書 『スローシャッター』(ひろのぶと株式会社)で、SNS本大賞「エッセイ部門」受賞(2023年)。フライ(釣り)、写真、野球とソフトボールが趣味。人前で声が通らないのがコンプレックス。